羽田航空少年団のアーカイブ

(機関誌「はねだ」に寄せていただいた記事より)

 

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機関誌「はねだ」連載「民間航空界の動き」より

このアーカイブは、機関誌「はねだ」に寄せていただいた、航空に関することや

実体験に基づいた想い出話などを、改めて団員の皆さんに紹介します。

古い表現や誤記などあるかもしれませんが、そのまま記載しました。

 

目 次

NO

題名

投稿者

号数 発行日
(053) 恩送り 団長:新井典郎第50号平成25年12月 1日発行
(052) IACE2013 in Netherlands 団員:平岡拓海第49号平成24年12月 1日発行
(051) IACE2011 訪日団と共に 理事:前田みなほ第48号平成23年12月 1日発行
(050) 「モナリザ」の途中下車 顧問:渡辺 勇第48号平成23年12月 1日発行
(049) 東日本大震災と羽田航空少年団 団長:新井典郎第47号平成23年6月 1日発行
(048) 関宿はるかなり 副団長:狩谷泰久第47号平成23年6月 1日発行
(047) 羽田物語 焼け野原の蒲田から羽田が見えた 理事:渡辺 勇第46号平成22年12月 1日発行
(046) カリフォルニア州(IACE2010) 理事:前田みなほ第46号平成22年12月 1日発行
(045) B5、A4のサイズも知らなかった(受賞にあたって) 顧問:渡辺 勇第45号平成22年 6月 1日発行
(044) 航空会社はいろいろあるから面白い 団長:新井典郎第44号平成21年12月 1日発行
(043) 民間航空の動き 顧問:久保俊郎第44号平成21年12月 1日発行
(042) 訪米団に参加して 理事:前田みなほ第44号平成21年12月 1日発行
(041) 地球の温暖化ってなに? 団長:新井典郎第43号平成21年 6月 1日発行
(040) 民間航空界の動き 顧問:久保俊郎第43号平成21年 6月 1日発行
(039) 官立 航空局 航空機乗員養成所の思い出の記
  その1 昭和17年合格通知を受け取るまで
  その2 養成所入所、初歩練習機の演習
  その3 93式三型練習機(初練)のこと
  その4 航空気象学と銅像のはなし
 理事:渋谷保男 第43号 平成21年 6月 1日発行
第44号平成21年12月 1日発行
第45号平成22年 6月 1日発行
第46号平成22年12月 1日発行
(038) 私の育った頃の生活と遊び 団長:新井典郎第42号平成20年12月 1日発行
(037) 私と羽田航空少年団(受賞にあたって) 理事:前田みなほ第41号平成20年 6月 1日発行
(036) 羽田再拡張に際して 顧問:久保俊郎第39号平成19年 6月 1日発行
(035) 航空会社の色々な仕事について 団長:新井典郎第38号平成18年12月 1日発行
(034) 旅客機の運航管理の話 団長:新井典郎第36号平成17年12月 1日発行
(033) 欧州小旅行 顧問:渡辺 勇第34号平成16年12月 1日発行
(032) モスクワの夏 顧問:渡辺 勇第33号平成16年 6月 1日発行
(031) コペンハーゲンの夜 副団長:渡辺 勇第31号平成15年 4月29日発行
(030) はじめてのアメリカ 副団長:渡辺 勇第30号平成14年12月 1日発行
(029) パラ・グライダーで飛ぼう!! 理事:渋谷保男第30号平成14年12月 1日発行
(028) おとぎの国デンマーク 理事:前田みなほ第28号平成13年 7月27日発行
(027) ニューヨークに居た頃 理事:新井典郎第28号平成13年 7月27日発行
(026) シドニーオリンピックに寄せて 副団長:渡辺 勇第25号平成12年 5月 1日発行
(025) こくさいせんのはじまり 副団長:渡辺 勇第23号平成11年 5月 1日発行
(024) 鳥の飛び方を知ろう 飛行機はなぜ飛ぶことができるのか 理事:渋谷保男第22号平成10年10月30日発行
(023) はねだひこうじょう物語 副団長:渡辺 勇第22号平成10年10月30日発行
(022) 777−300のお話 理事:村田照明

第22号

第23号

平成10年10月30日発行

平成11年 5月 1日発行

(021) スピード(速さ)について 副団長:渡辺 勇

第21号

平成10年 5月 1日発行

(020) 飛行機の進化と整備方法の移り変わり(1)、(2) 理事:村田照明

第20号

第21号

平成 9年11月 1日発行

平成10年 5月 1日発行

(019) ユニセフを支援して 理事:前田みなほ第19号平成 9年 5月 1日発行
(018) お天気のはなし 副団長:北城恒雄第18号平成 8年11月 1日発行
(017) 覚えておきたい一口知識 理事:杉本悟一第18号平成 8年11月 1日発行
(016) 地球と太陽と星 副団長:渡辺 勇第18号平成 8年11月 1日発行
(015) ユニセフを支援して 理事:前田みなほ第17号平成 8年 5月 1日発行
(014) ニッポン号の佐藤先生、サヨウナラ 監事:及位野衣第10号平成 5年 1月31日発行
(013) やさしい電波の話(1)、(2)、(3) 副団長:渡辺 勇

第 9号

第10号

第11号

1992年1月31日発行

平成4年2月23日発行

平成5年7月30日発行

(012) 日航製式YS−11 副団長:飯塚増治郎第 6号

1990年11月30日発行

(012) 未知への夢 理事:渡辺 勇第 4号

1990年11月30日発行

(010) 方角の話 団長:野原国治

第 4号

第 6号

第 7号

第 8号

第 9号

1990年3月31日発行

1990年11月30日発行

1991年3月31日発行

1991年7月31日発行

1992年1月31日発行

(009)

 空、飛行機、

 そしてパイロット

 @空、この不思議な世界(1)

 日本航空機長:

 上田恒夫

第 3号1989年11月30日発行
(008) A空、この不思議な世界(2)第 4号1990年 3月31日発行
(007) B古い飛行機と新しい飛行機(1)第 5号1990年 7月31日発行
(006) C古い飛行機と新しい飛行機(2)第 6号1990年11月30日発行
(005) D古い飛行機と新しい飛行機(3)第 7号1991年 3月31日発行
(004) Eパイロットの生活(1) ある出発の朝第 8号1991年 7月31日発行
(003) Fパイロットの生活(2) 元日のフライト

第 9号

1992年 1月31日発行

(002)

 発足に当たって 夢よ、大きく

理事:及位野衣

創刊号

1988年10月30日発行
(001)

 「編集後記」より

 −

創刊号

1988年10月30日発行

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第50号 平成25年12月1日発行

恩送り

団長 新井典郎


 歳をとるに従って次第に朝の目覚めが早くなり、早朝半分は眠りながらラジオを聴くことが多くなりました。

 その中で、先日午前4 時過ぎ、京都の有名なお寺のお坊さんのお話で「恩送り」いう言葉を初めて知ったのです。 「鶴の恩返し」や「浦島太郎」とか他の様々な童話で、自分が受けた恩に対して受けた人の恩に報いるという「恩返し」という言葉は小さいときから良く耳にしていましたが「恩送り」という言葉は知りませんでした。
 
 日頃、私がこれまで生きてきた77年余りの人生の中で家族をはじめ、周りの人たち、友人、学校の先生方、社会に出てからの上司、先輩、同僚、後輩などからは厳しくも暖かった様々な教えや、お世話を受けてきました。

 こうした社会全体から与えられた教えやお世話に対して漠然と、いつの日か、何かその人たちにお役にたてる「恩返し」をしなければ、今まで生きてきた自分の存在は余りにも無責任であり、寂しく、また自分の存在意義はあまりにも小さいものではないか、との思いに至りました。

 そして私の人生を振り返り、この世に生きた自分の存在価値を確認するため、何かお役に立ちたいと、自分の使える時間、出来る能力の範囲でボランティア活動(航空少年団、自治会や老人クラブヘの参画、文化遺産、社会福祉活動への参加など)を心がけてまいりました。

 しかし、よく考えてみるとこうした生き方は単純、素朴で、小さな自己満足にすぎないのではないのか、そして、こうした活動は余りにも今生きている同時代的な面にかたよっているのではないか、との反省を強く感じるようになったのです。

 マスコミでよく今の子供たちや若者たちは礼儀を知らない、他人に対する心遣いが足りない等といわれていますが、私はそんなことはないと思っています。 それは精神的に豊かで住みよい世の中にするために何をすればよいのか、どう行動すれば自分も幸福になれるのかという教えやしきたりを伝えてこなかった大人に原因があるのではないでしょうか。

 先人に学んだ教えやしきたりの恩を次の世代にしっかり伝えていくこと、それを「恩送り」という言葉で教えてくれたお坊さんのお話でした。 これからの羽田航空少年団の運営、指導にあたつて、次世代を担う団員に優れた「恩送り」を伝えていくよう努力したいと思います。

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第50号 平成25年12月1日発行

IACE 2013 in Netherlands

団員 平岡拓海


 去る7 月から8月にかけ、私は航空少年団として初めてのIACEオランダ派遣に参加した。今回はその体験を通して感じたことを写真を交えて紹介しようと思う。

 まずは今回のIACEの概要から…
 
  ・カデット :14ヶ国32名(うち女性13人)
  ・エスコート:3カ国3名
  ・活動拠点:蘭空軍ウーンスドレヒト基地
  ・日 程 :17日間(7/23〜8/8)
  ・備 考 :日本からの派遣は私1人、エスコートは設定されなかった
 
画像::同期、エスコートの方とともに撮影
 
 さて、ここからはIACEプログラムについて述べていこう。

 7月23日、いよいよ出発!余談だが、この日は母の誕生日である(笑) 。
 便は臨時便のKLM864便、よく見るボーイング777だ11時間半のフライトののち、アムステルダムに到着した。到着ロビーでは現地エスコートの男性とすぐ前の便で到着した韓国のカデット2名が迎えてくれた。ここからエスコートのマイカーでオランダ南部の空軍基地へと向かったのだが、オランダ縦断とはいえやはリオランダは小さい、1時間強で到着してしまった。夜も遅いので、この日はそのまま就寝。ルームメイトは私とニュージーランドの Simon、 トルコのFurkanの3 人だった。

 2日日はESAの宇宙センターを訪間、ここで去年日本を訪問した元カデットの女性と対面した。午後はカデット、現地人も交えて立食パーティーと自己紹介。エスコートの提案で一番面白く自己紹介を出来た人に賞品のDVD を送ることになったのだが、私が優勝してしまった… ( 苦笑) 」apanese NINJA 様サマである。

 3日目はデン・ハーグにある国会議事堂を見学。オランダの首都はアムステルダムだが、こちらは官庁、国際司法裁判所等の国連施設や大使館が密集する「事実上の首都」なのだ。その後は市中散策をして少し早めに基地へと戻る。私を含めたAMS午後到着勢はまだ買い物も両替もしていなかったのでこの機会に全て済ませた。
 ハンガー(衣紋掛けの方)の発音がうまくいかず、ボディーランゲージで何とか手に入れた。一方残りのメンバーはというと・・・基地でスポーツをしていた私が基地に着いた途端、「SHINOBIが来たぞー!」と大騒ぎである( 汗) 。だから私は忍者じゃないとあれほど・・・説得しても「日本人は忍者の存在を隠さなきゃいけないんだよね!」と言われる有様である(笑)ごめんね、忍者はいないんだよ><

 4 日目はバスで1時間ほどの場所にある別の基地でグライダー飛行。私は 40分ほど巡航したが、中には背面飛行& 超低空飛行をやって10分で戻ってくるカデットもいて驚いた。

 5日日は待ちに待ったアムステルダムツアー! 今春8 年ぶりに開館したというアムステルダム国立美術館ではフェルメールやレンブラントなどの有名な作品が数多くあり興味深かった。
 その後は夜の9 時まで自由時間。前半はアメリカやオーストラリアのカデットと、夕方からは香港、トルコ、韓国などのカデットとショッピングや食事に興じた。
 夜9 時からは運河を貸切水上バスで回る。オランダは高緯度なのでとにかく日が長い、10時を過ぎてもまだ明るい。2時間の船旅は大盛況のうちに幕を閉じた。しかし、明るいと言っても夜は夜である。基地には午前1時着、全員布団に直行であつた・・・zzz

 6日目は第二次世界大戦の激戦地を見学。数少ない平和学習の機会であり幹部自衛官を志す者としては興味深かった。

 7日目は戦闘機部隊の見学。耳栓をしてもなお耳を劈くエンジン音が記憶に残っている。午後は、オランダ最北端の海軍デン・ヘルダー航空基地に外泊。オランダ縦断である。途中経由した大堤防の景色が殊に美しかつた。
 さて、海軍基地ではカデットにかくれんぼに誘われ参加したのだが、待てど暮らせど捕まらない。結局「TAKUMI---!!」と大声で呼ばれこちらから名乗り出たのだが、「さすが本場のNINJAは違うぜ! 」と余計に誤解を招くことになってしまった・・・(苦笑)どうやら彼らは日本には本当に忍者がいて、普段は見つからない様に一般人に成りすましている、また、その存在はトップシークレットであると本気で思っているようだ。残念ながら、私は忍者ではないし、友達にも忍者はいない(笑)
 

画像:今回訪問した主なスポットと様々なシーン

 8日目はデンヘルダー海軍基地の哨戒機部隊の見学、機種は海上自衛隊も導入検討中というオランダ製NH90だ。現行機のSH60シーホークよりも大型の機体で、自衛隊の災害救助にも活躍できそうだと思う。
 午後は終日移動、一路200キロ離れたブレダの士官学校へと向かう。日本でいう防衛大学だ。そして、見学後基地に戻り就寝・・・

 9日目は戦闘ヘリ部隊と戦前戦中の飛行機の動態保存を行っている団体を見学。ここでこのプログラムも折り返しである。

 10日目はベースの基地で消防隊と教育飛行隊を見学。消火訓練や空港用化学消防車の運転をした。
 午後は車で30分ほどの場所にあるフリシンゲンの海水浴場で海水浴やスポーツ、買い物をした。

 11日目はロッテルダム港湾公社を表敬訪問し、市中散策をした後、ホストファミリーと対面し、家で夕食と相成った。

 12、13日日は終日ホームステイで、路面電車に乗せてもらったり、美術館見学、海水浴など、のんびりと過ごしつつも有意義な時間を過ごせた。家は、デン・ハーグ近郊の風車と牧場を望む広くてのどかな場所だった。

 14日日はKLMのマネジメントセンターを見学し、フライトシミュレーターの体験や整備場見学をした。引退間近のMD-11や貨物機の中に入るなど貴重な体験が出来た。
 夕方からは、基地で正装で集合写真撮影に臨んだ。

 15日日は空軍の輸送機部隊を見学。空中給泊機KDC-10と航空自衛隊も保有するC-130だ。見学後は近隣の都市アイントホーフェンを散策。
 またこの日は事実上の最終日でもあるので、お別れのバーベキューをした。

 16日目はカデットみんなで空港に行ってお別れ。年甲斐もなく泣いた男が居るそうなのだが、誰だったのだろう?(白目)
 ここから10時間、KLM861便で成田へ帰る。行きと違いB747型ジャンボ機だった。


 そして8月8日、17日日、帰国を果たす。
 成田では団の方が迎えに来てくれた。


・総合所見
 今回は航空少年団で初めてオランダに派遣されたのだが、まずよかったと思う事はその国際色の豊かさである。白人やアジア系はもちろん、イスラム圏のカデットもおり、異文化交流という点ではこの上ない環境だったと思う。
 日本人ということもあって神道や文化、食事についてはよく質問された。これから行く人にはそれらの知識をよく身につけて欲しい。因みに虫の佃煮の話をしたところ、一瞬で部屋が凍りついた(汗)。
 そしてこれまた大切な事なのだが、ここで出会った同期は一生の宝になる。
 今でも私は多くの同期と一緒に連絡をとっている。
 また、これは反省点なのだが、英語は自身の思っているより3倍話せないものと思っておくほうがいい。しかし、人間は慣れる生き物なのでしっかりと英語の土台を日本で作っておけば滞在1週間を経る頃には流暢とは行かないまでもかなり話せるようになると思う。
 最後に、今回のプログラムでお世話になった国内外の全ての方に感謝を申し上げてこのレポートを締めくくる。
 Dank u! (オランダ語で「ありがとう」の意)


 画像(おまけ):最終日の集合写真

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第48号 平成23年12月1日発行

IACE2011 訪日団と共に

理事 前田みなほ

 7月19日に訪日団の3名は成田へ夕刻到着しました。エスコートのウイリアム・ルイース(64歳 ワシントン州)、カデットのリカルド・ヴィラルタ(17歳 カリフォルニア州)、ティファニー・ヤコウザック(17歳フロリダ州)は長旅にも関わらず元気に東京へ着きました。

左から リカルド ティファニー ウィリアム 前田 馬場所長

 2日目、は国土交通省航空局を表敬訪問、羽田空港の管制官訓練施設の見学、羽田空港長を表敬訪問して羽田綜合センターでスカイフレンド協会本部長・航空振興財団中西理事長の温かな歓迎の言葉をいただいた後に3名はシュミレーターでセスナとヘリコプターの操縦訓練を受けました。


 
羽田空港で昼食(うどん)     コレド日本橋で夕食(とんかつ)

  3日目は、観光バスで一日都内観光は羽田団の水野幹部団員が案内役でした。明治神宮・皇居前広場・浅草・浜離宮庭園などを散策して日本に来た事を実感してもらいました。

 4日目は、東京消防庁航空隊を訪問。訪日団の3人の所属するCAPの最終目的は「航空機を操縦して民間人の災害時に救助をする」ことですから、誰にも非常に興味のある事柄ばかりですし、特にウイリアムはボランティアで遭難救助隊に所属しているので質問にも深く踏み込んでいました。

 3月の東日本の災害に派遣された事や国内・海外での活躍の様子を聞き周到な準備と弛まない訓練で多くの人々が守られている事を改めて心に留めました。勤務が24時間連続である厳しさを知り「私達が暇に出来る状況が皆様にも一番良い状態」と聞き全くその通りと思いました。立川防災センターでは防災訓練を体験しました。水消火器の放水、マウス・ツー・マウスとAEDの使用、震度7の体験と初期行動、煙火災からの脱出などで身を守る方法を確認し防災の重要性を実感しました。


 5日目、関西への移動。東京駅から東海道 新幹線に乗り、車窓から富士山を見て写真 も撮れ、昼食は駅弁とお茶で、新大阪までの日本の旅を楽しみました。
  関西団の歓迎会は、関空近くのゲートタワービル25階で新田谷団長に迎えられて25名の関西団の方々が揃い、心の籠もっ たもてなしを受けました。パネルの展示では団の活動の様子が分かり浴衣と甚平に3名は着替えも用意されて心憎いばかりの気配りでいよいよ日本情緒を味わえてビュッフェの美味しい食事と関空と海の眺望も素晴しく2時間はあっという間でした。訪日団の3名はそれぞれホストの家に案内されて3泊しました。

東京駅の新幹線ホームで

関西団の歓迎会

甚平と浴衣のプレゼント

 6日目は、高野山霊場巡りに泉佐野駅前から観光バスで日帰り旅行をしました。「世界遺産の歴史を散 策しましょう」と新田谷団長制作のオリジナル・パンフ レットは英和文に写真の入ったカラフルで美しい案内で一日の活動に多いに役立ちました。大門・金堂・ 根本大塔・金剛峰寺・霊宝館を見学し 蓮華仙亭で宿坊の精進料理をいただきました。奥の院をそぞろ歩き関西団の方々と霊場の雰囲気を深く感じる一 日でした。
 
高野山 大門の前で          蓮華仙亭のお庭で
 7日目、公式訪問で航空局関西空港事務所、りんくうタウンの真新しいキャンパス航空保安大学。泉佐野市役所で千代丸市長との歓談場面が翌日の読売新聞の記事となりました。
 8日目、泉佐野から関西団の方々と一緒に大阪市内観光、難波から法善寺横町を歩きました。ここで関西団の方々とは別れて6名になり、大阪滞在中はホテル宿泊となりました。

 9日目、京都観光へワゴン車で光り輝く金閣寺、西陣会館で優雅な着物ショー、清水寺の長い参道ではお土産屋の試食を繰り返して、かき氷でクール・ダウン。夕刻に大阪の梅田に戻り買物。

金閣寺
 東京では、移動の電車の中で駅名などを説明する中で漢字を少しずつレッスンしました。最初は「口」象形文字であり「目、日、月、木、林、森」というように毎日繰り返し、文字を組み合わせて他の文字となると伝えました。カデットの2人は大変興味を持って面白いように覚えてくれました。駅や街角で「入口・出口・東西南北」観光地で「氷」の暖簾をうれしそうに確認していました。
 10日目は、中部地区へ移動の途中で奈良観光。
 奈良公園では鹿の付き纏いに苦笑し、東大寺 大仏の穏やかな表情に癒されました。春日井市に到着後3名は3泊するホスト・ファミリ ーの家に行き、夕刻に制服着用で集合し、 名古屋団ウエルカム・パーティーに参加しました。エレガントなレストランでの正式ディ ナーでした。名古屋団は訪日団の受け入れの豊富な経験のあり、櫻井団長と団の方々との出会いは美味しい食事に加えて様々な会話が弾み和やかな雰囲気でした。

鹿と遊ぶ

 11日目、航空自衛隊小牧基地訪問。名古屋団の方々と一緒に基地司令を表敬訪問し施設をバスで巡り、航空機の見学では実際に機内に入り機材の説明を受けました。昼食は食堂で隊員と一緒に当日メニューのハヤシライスを豪快に食べました。
  
航空自衛隊小牧基地 見学     プレゼンテーション
 犬山城の城下町を散策をし、夕刻に木曾川で鵜飼の船に乗りライトアップされた犬山城を見て、篝火をつけた4隻の鵜舟の総がらみには乗船者は身を乗り出して見入りました。

 12日目、名古屋市内観光。朝の徳川園の庭を散策、美術館では「徳川の姫君」の華やかな企画展示を鑑賞し、午後は名古屋城の見学で晴天でもあり天守閣からの名古屋市の景色を眺めました。
 夕刻に春日井に戻り、ティファニーは 浴衣でリカルドは甚平に着替えて盆踊りに行くと 櫓の上で町内の参加者へ紹介され、市内の3会場を巡りカ デット二人は踊りまくりました。 「踊るポンポコリン」でピーヒャラ、ピーヒャラ、「鞠と殿様」ではてんてん てんまりとノリノリ、終了まで居ても未だ踊り足りない様子でした。全期間の活動の中で一番輝いて見えました。

 13日目、午前中は春日井市の「こども文化体験道場」に参加。「けん玉ショー」、茶室で抹茶とお菓子を体験、子供達の日本舞踊も見ました。午後に名古屋の大須で下町の買物を楽しみ、名古屋団の方々と駅で別れ新幹線で品川へ向いました。これから3泊はホテル滞在。

盆踊りの櫓の上で


名古屋駅新幹線ホーム

 14日目 東京ディズニー・ランドへ。羽田団の水野君の案内でJR舞浜駅へ行き、羽田団の参加者と落ち合い合計10名で入場しました。ミッキー・マウスやグーフィーの出迎えで盛り上がり、それぞれが目指すアトラクションで夕食まで楽しい時間を過ごしました。
  
東京ディズニー・ランド    羽田団と一緒に朝・昼・夕

 15日目 東京観光。地下鉄で浅草へ行き仲見世で自由時間、秋葉原で電気屋さんを巡り、午後は男性は築地へ女性は銀座へと別れて歩きました。
 さよならパーティーは活動の中で最も多くの航空少年団関係の方々と一堂に会する機会でエスコートとカデット達は制服着用で参加し、日本訪問を心から楽しみ2週間余りの間にホスト・ファミリーを始めお世話になった多くの方々への心遣いと親切心に大いに感謝の言葉と必ず来日の機会を作りたいと希望を述べていました。ビュッフェの食事を囲み、参加者達と和やかな歓談をして友情を確かめると日本と米国双方が感謝状と記念品やお土産物を贈呈し合い名残を惜しみました。
 同時に世界中の十数カ国で開催されたIACE2011はこうして明日の帰国日を残して日本でも全行程を無事に終了しまし。

さよならパーティーの参加者全員
 16日目は、成田空港へ向い、JALのオペレーション・センターを訪問して客室乗員室とディ スパッチ・ルームの見学後、社員食堂で昼食を して全ての活動を締めくくりました。
 搭乗のチェック・イン後は写真撮影で日本のスタッフとも別れの時でした。出国手続に向う3名の姿を見送り、無事のフライト祈りました。
 幸いなことに活動の期間中に例年のような暑とはなりませんでしたので、東京・関西・名古屋と全員が元気に活動をする事が出来ました。ハプニングがゼロであったのは何よりでした。爽やかな笑顔を残して帰国の途についたウイリアム、リカルド、ティファニー達の今後のCAPでの活躍を見守りたいと思いました。
 米国人であるのにワールド・サッカーで優勝した「なでしこ・ジャパン」のユニフォームのレプリカを滞在中探していた日本贔屓のウイリアムが「サヨナラ・パーティー」で述べた言葉を要約します。
 「5年前にIACE2006のプログラムにエスコートとして選抜されました。2週間余りの旅行中に日本のホストと人々の献身的な親切で楽しみました。 私は日本の人と国との恋に落ちてしまいました。3月8日にIACEのエスコートとして日本への選抜の通知がありました。
 日本に戻り幸せと楽しみを享受する事が可能となったのです。そこで3月11日、私の喜びと幸せに暗雲が湧き上がり地震と津波の災害の報道を見守り続けま した。多くの人々の人生が失われるのを目にしてこの大災害に心を痛めました。
 日本の人々は私の人々であり日本の損失は私の損失でも あります。私の最大の心配事は日本への旅がキャンセルになる事でした。水曜日には日本から帰国となり、心ならずも帰宅の途につかなくてはなりません。日本のほんの一部ではありましょうが、お見せ頂き大変感謝いたしております。日本のIACE2011のプログラムがいかに上手に組織され構成員が有能であるかをどうぞ誇りになさって下さい。
 私の連れてきた二人のカデット達は日本という国と人々や文化への充分な理解をして米国へ戻るでしょう。」

 関西団は訪日団を初めての受け入れ担当になり、どうしたら楽しんでもらえるかと非常に緊張して準備をされたと伺いました。「特別な事をしようとは考えないで、どうぞ日々の生活の中に入ってもらい一緒に過ごすと思って下さい。」と不安そうな様子のホスト・ファミリーの方に申し上げました。「生活習慣や言葉を超えて楽しく過ごせて、また機会があったら・・・。」と分かれる時には受け入れて良かったとの感想を聞くことができました。 何度も経験をされた名古屋団の方々も多くのプログラムを検討されて準備をして天候や状況に柔軟に対応して活動内容を微調整しながらの運営にさすがと驚かされました。

 

第48号 平成23年12月1日発行

IACE2011 訪日団と共に

理事 前田みなほ

 7月19日に訪日団の3名は成田へ夕刻到着しました。エスコートのウイリアム・ルイース(64歳 ワシントン州)、カデットのリカルド・ヴィラルタ(17歳 カリフォルニア州)、ティファニー・ヤコウザック(17歳フロリダ州)は長旅にも関わらず元気に東京へ着きました。

左から リカルド ティファニー ウィリアム 前田 馬場所長

 2日目、は国土交通省航空局を表敬訪問、羽田空港の管制官訓練施設の見学、羽田空港長を表敬訪問して羽田綜合センターでスカイフレンド協会本部長・航空振興財団中西理事長の温かな歓迎の言葉をいただいた後に3名はシュミレーターでセスナとヘリコプターの操縦訓練を受けました。


 
羽田空港で昼食(うどん)     コレド日本橋で夕食(とんかつ)

  3日目は、観光バスで一日都内観光は羽田団の水野幹部団員が案内役でした。明治神宮・皇居前広場・浅草・浜離宮庭園などを散策して日本に来た事を実感してもらいました。

 4日目は、東京消防庁航空隊を訪問。訪日団の3人の所属するCAPの最終目的は「航空機を操縦して民間人の災害時に救助をする」ことですから、誰にも非常に興味のある事柄ばかりですし、特にウイリアムはボランティアで遭難救助隊に所属しているので質問にも深く踏み込んでいました。

 3月の東日本の災害に派遣された事や国内・海外での活躍の様子を聞き周到な準備と弛まない訓練で多くの人々が守られている事を改めて心に留めました。勤務が24時間連続である厳しさを知り「私達が暇に出来る状況が皆様にも一番良い状態」と聞き全くその通りと思いました。立川防災センターでは防災訓練を体験しました。水消火器の放水、マウス・ツー・マウスとAEDの使用、震度7の体験と初期行動、煙火災からの脱出などで身を守る方法を確認し防災の重要性を実感しました。


 5日目、関西への移動。東京駅から東海道 新幹線に乗り、車窓から富士山を見て写真 も撮れ、昼食は駅弁とお茶で、新大阪までの日本の旅を楽しみました。
  関西団の歓迎会は、関空近くのゲートタワービル25階で新田谷団長に迎えられて25名の関西団の方々が揃い、心の籠もっ たもてなしを受けました。パネルの展示では団の活動の様子が分かり浴衣と甚平に3名は着替えも用意されて心憎いばかりの気配りでいよいよ日本情緒を味わえてビュッフェの美味しい食事と関空と海の眺望も素晴しく2時間はあっという間でした。訪日団の3名はそれぞれホストの家に案内されて3泊しました。

東京駅の新幹線ホームで

関西団の歓迎会

甚平と浴衣のプレゼント

 6日目は、高野山霊場巡りに泉佐野駅前から観光バスで日帰り旅行をしました。「世界遺産の歴史を散 策しましょう」と新田谷団長制作のオリジナル・パンフ レットは英和文に写真の入ったカラフルで美しい案内で一日の活動に多いに役立ちました。大門・金堂・ 根本大塔・金剛峰寺・霊宝館を見学し 蓮華仙亭で宿坊の精進料理をいただきました。奥の院をそぞろ歩き関西団の方々と霊場の雰囲気を深く感じる一 日でした。
 
高野山 大門の前で          蓮華仙亭のお庭で
 7日目、公式訪問で航空局関西空港事務所、りんくうタウンの真新しいキャンパス航空保安大学。泉佐野市役所で千代丸市長との歓談場面が翌日の読売新聞の記事となりました。
 8日目、泉佐野から関西団の方々と一緒に大阪市内観光、難波から法善寺横町を歩きました。ここで関西団の方々とは別れて6名になり、大阪滞在中はホテル宿泊となりました。

 9日目、京都観光へワゴン車で光り輝く金閣寺、西陣会館で優雅な着物ショー、清水寺の長い参道ではお土産屋の試食を繰り返して、かき氷でクール・ダウン。夕刻に大阪の梅田に戻り買物。

金閣寺
 東京では、移動の電車の中で駅名などを説明する中で漢字を少しずつレッスンしました。最初は「口」象形文字であり「目、日、月、木、林、森」というように毎日繰り返し、文字を組み合わせて他の文字となると伝えました。カデットの2人は大変興味を持って面白いように覚えてくれました。駅や街角で「入口・出口・東西南北」観光地で「氷」の暖簾をうれしそうに確認していました。
 10日目は、中部地区へ移動の途中で奈良観光。
 奈良公園では鹿の付き纏いに苦笑し、東大寺 大仏の穏やかな表情に癒されました。春日井市に到着後3名は3泊するホスト・ファミリ ーの家に行き、夕刻に制服着用で集合し、 名古屋団ウエルカム・パーティーに参加しました。エレガントなレストランでの正式ディ ナーでした。名古屋団は訪日団の受け入れの豊富な経験のあり、櫻井団長と団の方々との出会いは美味しい食事に加えて様々な会話が弾み和やかな雰囲気でした。

鹿と遊ぶ

 11日目、航空自衛隊小牧基地訪問。名古屋団の方々と一緒に基地司令を表敬訪問し施設をバスで巡り、航空機の見学では実際に機内に入り機材の説明を受けました。昼食は食堂で隊員と一緒に当日メニューのハヤシライスを豪快に食べました。
  
航空自衛隊小牧基地 見学     プレゼンテーション
 犬山城の城下町を散策をし、夕刻に木曾川で鵜飼の船に乗りライトアップされた犬山城を見て、篝火をつけた4隻の鵜舟の総がらみには乗船者は身を乗り出して見入りました。

 12日目、名古屋市内観光。朝の徳川園の庭を散策、美術館では「徳川の姫君」の華やかな企画展示を鑑賞し、午後は名古屋城の見学で晴天でもあり天守閣からの名古屋市の景色を眺めました。
 夕刻に春日井に戻り、ティファニーは 浴衣でリカルドは甚平に着替えて盆踊りに行くと 櫓の上で町内の参加者へ紹介され、市内の3会場を巡りカ デット二人は踊りまくりました。 「踊るポンポコリン」でピーヒャラ、ピーヒャラ、「鞠と殿様」ではてんてん てんまりとノリノリ、終了まで居ても未だ踊り足りない様子でした。全期間の活動の中で一番輝いて見えました。

 13日目、午前中は春日井市の「こども文化体験道場」に参加。「けん玉ショー」、茶室で抹茶とお菓子を体験、子供達の日本舞踊も見ました。午後に名古屋の大須で下町の買物を楽しみ、名古屋団の方々と駅で別れ新幹線で品川へ向いました。これから3泊はホテル滞在。

盆踊りの櫓の上で


名古屋駅新幹線ホーム

 14日目 東京ディズニー・ランドへ。羽田団の水野君の案内でJR舞浜駅へ行き、羽田団の参加者と落ち合い合計10名で入場しました。ミッキー・マウスやグーフィーの出迎えで盛り上がり、それぞれが目指すアトラクションで夕食まで楽しい時間を過ごしました。
  
東京ディズニー・ランド    羽田団と一緒に朝・昼・夕

 15日目 東京観光。地下鉄で浅草へ行き仲見世で自由時間、秋葉原で電気屋さんを巡り、午後は男性は築地へ女性は銀座へと別れて歩きました。
 さよならパーティーは活動の中で最も多くの航空少年団関係の方々と一堂に会する機会でエスコートとカデット達は制服着用で参加し、日本訪問を心から楽しみ2週間余りの間にホスト・ファミリーを始めお世話になった多くの方々への心遣いと親切心に大いに感謝の言葉と必ず来日の機会を作りたいと希望を述べていました。ビュッフェの食事を囲み、参加者達と和やかな歓談をして友情を確かめると日本と米国双方が感謝状と記念品やお土産物を贈呈し合い名残を惜しみました。
 同時に世界中の十数カ国で開催されたIACE2011はこうして明日の帰国日を残して日本でも全行程を無事に終了しまし。

さよならパーティーの参加者全員
 16日目は、成田空港へ向い、JALのオペレーション・センターを訪問して客室乗員室とディ スパッチ・ルームの見学後、社員食堂で昼食を して全ての活動を締めくくりました。
 搭乗のチェック・イン後は写真撮影で日本のスタッフとも別れの時でした。出国手続に向う3名の姿を見送り、無事のフライト祈りました。
 幸いなことに活動の期間中に例年のような暑とはなりませんでしたので、東京・関西・名古屋と全員が元気に活動をする事が出来ました。ハプニングがゼロであったのは何よりでした。爽やかな笑顔を残して帰国の途についたウイリアム、リカルド、ティファニー達の今後のCAPでの活躍を見守りたいと思いました。
 米国人であるのにワールド・サッカーで優勝した「なでしこ・ジャパン」のユニフォームのレプリカを滞在中探していた日本贔屓のウイリアムが「サヨナラ・パーティー」で述べた言葉を要約します。
 「5年前にIACE2006のプログラムにエスコートとして選抜されました。2週間余りの旅行中に日本のホストと人々の献身的な親切で楽しみました。 私は日本の人と国との恋に落ちてしまいました。3月8日にIACEのエスコートとして日本への選抜の通知がありました。
 日本に戻り幸せと楽しみを享受する事が可能となったのです。そこで3月11日、私の喜びと幸せに暗雲が湧き上がり地震と津波の災害の報道を見守り続けま した。多くの人々の人生が失われるのを目にしてこの大災害に心を痛めました。
 日本の人々は私の人々であり日本の損失は私の損失でも あります。私の最大の心配事は日本への旅がキャンセルになる事でした。水曜日には日本から帰国となり、心ならずも帰宅の途につかなくてはなりません。日本のほんの一部ではありましょうが、お見せ頂き大変感謝いたしております。日本のIACE2011のプログラムがいかに上手に組織され構成員が有能であるかをどうぞ誇りになさって下さい。
 私の連れてきた二人のカデット達は日本という国と人々や文化への充分な理解をして米国へ戻るでしょう。」

 関西団は訪日団を初めての受け入れ担当になり、どうしたら楽しんでもらえるかと非常に緊張して準備をされたと伺いました。「特別な事をしようとは考えないで、どうぞ日々の生活の中に入ってもらい一緒に過ごすと思って下さい。」と不安そうな様子のホスト・ファミリーの方に申し上げました。「生活習慣や言葉を超えて楽しく過ごせて、また機会があったら・・・。」と分かれる時には受け入れて良かったとの感想を聞くことができました。 何度も経験をされた名古屋団の方々も多くのプログラムを検討されて準備をして天候や状況に柔軟に対応して活動内容を微調整しながらの運営にさすがと驚かされました。
 三十数年の実績を積まれた田林さんとセンターの飯田さんと一緒に3名の CAPのメンバーと活動を共に出来たのは私自身としても大きな喜びでした。 IECAでは過去に4度のエスコートで米国派遣と訪日団の方々と東京滞 在中の同行は経験しましたが日本で全行程を帯同したのは初めてであ りました。猛暑を覚悟して迷惑をかけ ない様にと気を張り詰めていましたが、天候は参加者全員にも活動を妨げる ことがなかったのはラッキーでした。 今後もスカイフレンドの一員として出 来うる限りの協力を続けようと思って います。

新幹線で移動中

INTERNATIONAL AIR CADET EXCHANGE 2011
2011「航空青年の国際相互研修」 訪問団結団式
2011年7月18日航空振興財団羽田綜合センター
 

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第48号 平成23年12月1日発行

「『モナリザ』の途中下車」

顧問 渡辺 勇

 先日航空少年団の総会で私がモナリザの空輸についてのエピソードを紹介したところ、飯沼理事からあの話をもっと詳しく書いてみてはとのお話がありました。古い飛行記録を引っ張り出して見ました。

 1974年( 昭和49年) の事です。当時の総理田中角栄さんが訪欧の際、フランスの大統領にルーブル美術館の不朽の名画「モナリザ」を是非東京で見せて欲しいと懇願したのが始まりです。

 モナリザはルーブル以外ニューヨークで展示された事はありましたが一切他国で展示された事はありません。それが東京の上野で一般公開されたのです。1974年6月の事です。期間は確か10日間位でしたが、上野は連日大変な賑わいで一目この名面を見たい人達が連日行列を作りました。

 この名画がフランスから日本へ運ばれてきたのはエアフランスのボーイング707によって北極(アンカレジ)経由でした。

 さて帰りはどうなるのか。フランスから日本航空のチャーターフライトでパリまで運んでくれという事で話が決まりました。日航は立派な貨物機DC-8がありました。

 私もモナリザフライトに指名されたので、実物を見なければと思い上野へ出かけました。美術館の前は長蛇の列です。並んで切符を買い、館内へ入りましたが、これまた長蛇の列です。モナリザを観賞するどころではありません。警備員の「立ち止まらないで」の声で名画の前を素通りするのが精一杯です。これで名画を見たことになるのでしょうか?全く期待外れもいい所です。仕方なくモナリザの復刻版を買い求めて帰りました。観覧した人は150万人といわれております。

 さてこの様なフィーバーのなか展示も終わり、1974年6月11日名画モナリザは我が日本航空のDC-8貨物専用機JA8032によってモスクワ経由で帰国する事になりました。当時のDC-8では羽田からパリまでの航続能力はありません。モスクワで途中給油しなければなりません。

 そして出発直前、ソビエト政府から要望があり、モスクワでモナリザを降ろして1週間程モスクワ市民に観賞させてくれとの事でした。フランス政府も承知して、急遽モナリザはモスクワで途中下車という事となりました。

 6月11日午前JA8032機は羽田空港の隅で待機していました。厳重に警戒されたバスが上野から到着しました.超国宝級の絵画なので厳重な梱包がなされ、例え飛行機が海中に落ちても絵は無事であるというようなことが語られておりました。

 6月11日、出発にあたり空港で簡単なセレモニーがあり、ルーブル美術館の職員が3人立ち合いました。

 機は午前11時40分羽田を離陸、約9時間後モスクワシェレメチボ空港に到着。モスクワ時間午後3時。ここでモナリザは途中下車、ルーブルの職員もともに降りる。日本であれほど厳重書備されていたモナリザはここモスクワではおんぼろトラックに乗せられて街へ向かっていきました。

 わがDC-8はパリまでチャーターされているのでここで帰るわけにもいかず。空気を運んでシャルルドゴール空港へ向かいました。

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第47号 平成23年6月1日発行

「東日本大震災と羽田航空少年団」


団長 新井典郎

  3月11日に突然東日本を襲った大震災から、この6月で3カ月がたちます。
 東北地方太平洋岸を中心に関東南部沿岸地方までが、かつてない大きな被害を受け、多くの尊い命が失われ、また肉親、家、職場をなくして厳しい生活を強いられている方々が今もなお沢山おられます。

 こうした方々に対し心からの同情とお見舞いを申し上げたいと思います。
 羽田航空少年団としても4月、5月の団行事を通じ、団員、保護者、役員の皆様に声をかけ、取りあえず、現在出来ることとしての募金活動を行い、私たちの仲間である岩沼航空少年団にお見舞いを差し上げたところ、丁重なお礼の言葉をいただきました。

 日本国内をはじめ、世界中から被害者に対する救援の手が差しのべられており、羽田団としても、機会あるごとに私たちにできる復旧への協力に力を尽くしたいと考えています。

 直接、地震や津波に襲われた地域に加え、まったく想定されていなかった原子力発電所の破壊による放射能汚染で目に見えない被害や恐怖にさらされている人たちや全力を挙げて復日に当たっている方々のTVニユースを見るたびに脅えさせられることは、自然災害は言うに及ばず、様々な日常想定される事故、事件、危険な状態の発生に備えるべき危機管理の重要性です。後手、後手にまわっている政府や東京電力の対応、誤った情報提供などが連日厳しい追及を受けています。結果論ではありますが、最悪のあらゆる状態を想定した危機管理マニュアルの作成やその時に分かっている正確な報道が何故なされていなかったのか残念でなりません。人間の運命は、病気や事故、災書など全く予期しないことで突然脅かされる可能性があると改めて強く実感し、それに対する対処策を常に考えておかなければならないことがよくわかりました。

 私たちが毎月実施している航空少年国の行事活動においても東日本大震災や他の多くの交通事故などに比較すれば規模は小さく内容も異なるかもしれませんが、参加者ひとりひとりにとってみればその重要性は何ら変わりはないと考えます。
 昨年度末本部より提示された「航空少年団安全管理マニュアル」に従い、今年度の重点目標として、羽田団団員にわかりやすく、使いやすいマニュアルを作成したいと思います。

 日ごろの団活動で指導者である役員、幹部団員は常に安全に対する意識、知識、技量を磨き、行事の企画、立案、準備、実施にあたらなければなりません。

具体的には
@危険な行場をさせない、A危険な場所に近寄らせない、B危険を選ける方法を教える、C自ら進んで安全行動をとることの大切さを気付かせ、危ない行なを叱り、安全な行為を褒めるなどが考えられます。又、団員自分も安全の重要性を良く認識して指導者の指示に従い内容をよく理解し、適切に行動する必要があります。

 最後に再び東日本大震災で被書を受けられた方々に思いをはせ、被災者の書さんには必ずや再び元気で明るい日が来ることを信じ、析っております。

 頑張ろう日本! そして頑張れ 勇気、元気、そして希望あふれる羽田航空少年団!

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第47号 平成23年6月1日発行

「関宿はるかなり」


副団長 狩谷泰久

 昭和28年(1953年)商船大学(後に東京商船大学、現東京海洋大学)に入学した。大学は当時清水市(現静岡市清水区)にあり、三保の松原にいたる半島で囲まれたのどかな美しい場所に、校舎、学生寮、海岸校舎、ポンツーン(浮き桟橋)等が配置され、船乗りになる訓練、勉強には充分に良い環境であった。

 受験勉強から開放されて、大学では運動部を目指したいと思って入ったが、野球やサッカーは高校でやってきた者が多く、高校でなにも運動部をやってこなかった者に一番はボート部(漕艇部)だと考え選んだ。丁度60年前のことである。
 海岸のポンツーン周りには、ボート部をはじめヨット部、端艇部などがあり、我々その部員達は学内で、「海岸民族」と呼ばれていた。実際、座学や実習に出る以外殆どの時間を海岸で過ごしていたからである。

 この海岸民族の中のヨット部に、今の杉本副団長が2級上に、2級下に新井団長がいたのだが、後に述べる大学の越中島移転で、新井団長とは海岸民族で一緒はあまり長くない。彼は私がボート部で漕いでいるのを覚えているというが、ヨットをやってる彼を、清水では知らなかった。

 海の大学では、海況や気象判断、操船技術、全体の安全等部の活動の実力は、1年違えば随分と上で、2年違えばもう大名と足軽ほどの差で、当時杉本副団長は傍らへ寄って気軽に話しかけられる程の存在ではなかった。

 ボート部はすでにシェルエイト(8人漕ぎ写真参照)を持っていたが、清水の海は駿河湾につながるだけに風波があり、市内を流れる巴川まで漕ぎ渡って練習して、また大学へ戻るには、慎重な気象判断が重要であった。それで主にナックルフォアという重いが舷が高く、波が入ってきにくい4人漕ぎの艇での練習が多くなっていた。この艇でも、シートはスライドするのだが、漕ぎ手の尻には過酷で、よく擦りむけた。傷からバイ菌が入り、汗のパンツを次の日もまた履くので、化膿する。尻っべたの肉の奥にまで膿が入り「根太(ねぶと)」になる。ペニシリンが効くと聞いたが当時は高価で入手が難しく、ボート漕ぎに根太はつきものなどと言われ、そのまま漕ぐしかなかった。



 ボート部では1年2年生は正選手とはいかず、選手を目指して入部しても仕事は主に合宿所の掃除、飯炊き、ボートの保守等で練習はその合間で、日暮れ時までつづいていた。

 進駐軍(日本敗戦後にアメリカ軍が国内に広く場所をとって進駐し、政府の様な役割をしていた)が、戦前の商船学校の越中島校舎を占領していたのが、1955年日本側に返還され商船大学はようやく清水から東京に帰って来ることができた。私か3年になった4月のことである。

 東京湾の奥まった場所越中島には新しいポンツーンができ、埋め立て地の掘割はボートの練習に適し、清水時代とは比較にならぬよい環境であったから、繰習はとても充実し捗った。また他の大学のボート部との交流も盛んになり、レガックで競う相手も多くなかった。単科3大学対抗戦(東京外語人、東京工業大、東京商船大(現東京海洋大)、関東選手権、全日本選手権へとボート部は対外試合て忙しくなった。

 どのスポーツでもそうだが、よいグランド、よい体育館、よい水面ばかりになれると、荒々しくへこたれない体力、気力が養われないきらいがある。

 波静かな掘割りばかりの練習でなく、もっと荒くても平気のボート部でなくてはと、他の大学同様、遠漕(えんそう)を計画した。これか関宿遠漕である。

 基地越中島を出て、東京湾々岸を南下し、江戸川の河口に入り、上流へ50余キロの関宿に至る片道約60キロの遠漕で、日帰りは出来ない。

 ナックルフォア2叟を連ねて、部員の半数は漕ぎ上り、半数は全部員分の食料を携えて関宿の民宿へ陸行し、翌日交代して半数が漕ぎ下る。清水で鍛えていたとはいえ、江戸川の川幅は広く、波も相当に高く、舷を越えて入ってくる水を汲みだしなからの遠漕であった。

 夕方関宿に着き、その夜は民宿泊まりになるのだか、食料は持ち込みであった。当時はまだ食料事情がよくなかったためである。


 エイトの整調(コックス(舵手)のすぐ前の席でピッチを整える役目の位置)のポジションに就いた3年生での選手生活は充実していて、朝から晩までボートのことばかりで明け暮れていた。しかし4年生になれば、卒業論文の実験や乗船実習でボートから離れなくてはならないのはわかっていた。留年してもう一年漕ごうかと思ったくらいであった。

 1957年秋、卒業前の9カ月の遠洋航海を終えて帰った越中島は、未曾有の海運好況時であった。商船大学卒業牛は船会社から引く手あまたで、私のように航空会社を目指す者は″不届き者″の誹りを免れず、大学からは翻意を促されつづけた。

 好況時に船会社に卒業生を送り込み、不況時にも採用してもらうためである。航海士になる勉強をして得た知識を、長距離飛行の空中航法(Air navigation)に生かしたいと航空会社を希望したのだが、こちらは入社試験があり、「落ちてきても海界運では働けないようにしてやる」とまで言われた。

 航空会社に合格し、大学に頭を下げにいく場面は、幸いなかった。石もて追われるように出た越中島には、卒業後は寄りつく気にもなれず、ずっと50年の間、大学の門をくぐることもボート部を見にいくこともなかった。

 航空会社を定年退職して4年後OBの集まりでたまたまご一緒した今の杉本副団長に「大名と足軽」ほどに違う間柄を越えて航空少年団を手伝えと誘われ、後輩の新井団長を手助けすることになったのは、やはり昔の「海岸民族」の復活であろうか。入学から60年を経た今日、あの汗と根太で痛かった尻の記憶が残る関宿へ、川からでなく、陸廻りで滑空場ヘモーターグライグーを、また卒業のときの苦い思い出の越中島へ、べットボトルロケットを飛ばしに毎年の行事で行くことになるとは、小生には感慨深いものがある。

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第46号 平成22年12月1日発行

「羽田物語 焼け野原の蒲田から羽田が見えた」


顧問 渡辺 勇

 平成22年(2010)秋、羽田空港に国際線が戻り、大変な賑わいを呈している。
 昭和20年(1945)日本の敗戦により第2次大戦は終結した。私はその前年(1944)の秋、羽田飛行場(旧大日本航空東京支所)に赴任した。
 海軍航空隊の厳しい訓練を経た20才の予備士官でもあった。初任給は60円(他に乗務手当60円)。
 当時、マリアナ基地からの米空軍B-29が頻繁に本土空襲にあらわれる頃であった。
 羽田への通勤は主として蒲田駅から定時に出る会社のバスである。古い社員の中には松竹蒲田撮影所へ通う女優さんを見たという人もいた。バスによらない時は京浜蒲田駅まで歩き穴守線に乗り、終点穴守駅から歩いて10〜15分、穴守神社の赤鳥居の前を通り、いっぱい飲み屋や旅館などの並ぶ街を抜けて羽田空港のターミナルヘ着いた。
 乗務はDC-3型機による台湾との往復が主である。大阪(伊丹)福岡(雁の巣)経由で、乗客21名、時速230km、当時としては大型の双発機であった。純国産機ニッポン号による世界一周飛行は昭和14年(1939)に羽田を発着している。
 昭和20年(1945)になると空襲は全国的に激しくなり加えて艦載機の攻撃も増えた。大森蒲田も焼け野原となった。蒲田駅を出ると焼け野原の遥か向こうに羽田飛行場が見えた。こんなことは二度とないだろう。9月2日横浜のミズーリ艦上で敗戦の調印式があり、重光外相が不自由なからだを運んで調印した。そのあと続々とジープをつらねて米軍が都内へ乗り込んで来た。大鳥居の踏切で電車は止まって米軍車両の通過を待った。
 やがて米軍は羽田の日航にも接収にやってきた。私達のいる乗員の部屋も剣付き鉄砲を構えた恐い顔の若い兵隊が現れた。
 日本の陸海軍の戦聞機や爆撃機は全部プロペラを外したり尾翼を外して油をかけて火をつけて飛べなくした。輸送機は賠償にするとかで羽田飛行場へ続々集められた。その数70機くらいはあったろう。米軍はこれらの輸送機を片っ端から飛行場端の沼ヘブルトーザではこび埋め始めた。我々はそんな事なら無線機をはずせとかタイヤはずせなどと大騒ぎしたものだ。今のB滑走路の下あたりには沢山の飛行機が埋められている。
 穴守町の住民は48時間以内の退去を命じられ、穴守神社も川を渡って現在の所へ移動し赤鳥居が残った。この赤鳥居も今は弁天橋きわに移された。羽田飛行場は米軍管理下に入り、大工事が始まった。
 今まで東西と南北に700mか800mの滑走路があったが、これが埋没し北西から南東に延びる3000m級のA滑走路ができた。この滑走路も今は駐機場となっている。
 昭和27年(1952)7月米軍管理下にあった羽田飛行場は日本の管理下に移った。それまで空港勤務者は弁天橋を渡った所でバスから全員降ろされてボディチェックを受けた。帰りも橋の手前で降ろされ同様のチェックをうけた。
 昭和26年(1951)日本航空が再開し、1954年2月国際線が初めて羽田から太平洋を渡ってアメリカヘ飛んだ。
 当初はDC-6Bによる週2便であった。飛行機も次々に変化し、飛行場も変化していった。モノレールや京急により都心からのアクセスも格段に進歩した。この間もくせい号事件があり、全日空機の羽田沖墜落事故があり、カナデイアン航空が羽田へ着陸時事故を起こしたり、羽田を飛び立ったBOAC機が富士山近くで乱気流により墜落したり、御巣鷹山に日航ジャンポ機が墜落したりした。
 昭和53年(1978)国際線は成田へという事で羽田は国内線専用になった。そして32年後再び羽田に国際線が戻つてきた。
 今や年間7000万人が利用する大空港であるが私には初任給を頂いた地でもあり65年余の色々な思い出のある羽田である。 2010.11.

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第46号 平成22年12月1日発行

理事 前田みなほ

 

 

MINAO MAEDA

 


I A C E 2010

 訪米参加は カナダ 日本 韓国 シンガポール オーストラリア ニュージーランド 香港 ベルギー イスラエル オランダ ドイツ 英国 トルコ ガーナの14の国から カデットとエスコートをあわせて77名でした。
 首都ワシントンに7月20に集合して 3日間を過ごし 訪問する11州へ各国のカデット とエスコートがグループを作って 各州で10日間の活動をしました。そして もう一度 首都に戻り 州での活動の様子を報告発表して、8月4日にそれぞれの国へ帰りました。





「カリフォルニア州(IACE2010)」
羽田団 前田みなほ

 私の米国のIACEへの参加は4度目になり、今回も意外な方向から突然決まりました。
 6月下旬からヨーロッパ旅行を予定しており 7月8日に帰国しましたので 時差を引きずったままの 大変慌しい出発となりました。
 7月19日午後 航空振興財団の羽田綜合センターで結団式をしました。 米国へ3名、カナダへ2名の合計5名が集合して、航空少年団中村本部長の訓示と励ましの言葉をいただきました。 その後の説明会では昨年の経験談を参考として聞く事ができました。
 夕刻 成田空港へと移動して ホテルに滞在し出発へと備えました。
7月20日、11時05分発の全日空機に搭乗して12時間半のフライトでした。

 ワシントンDC ダレス国際空港へは 例年の様にアイオワ州ステイーブが出迎えに来ていました。 ジョニーがバンを運転してクリスタル・シティのヒルトン・ホテルへと向いました。 いつも同じスタッフに空港で出会えて同じ手順で行動できるのは大変心が落ち着くものでした。 昨年までと違っていたのは 空港自体で改装されて明るく広々となっていました。 また、空港から市内に向う道路が整備中で交通渋滞がひどく時間が掛りました。 4年後にはメトロの「空港駅」が出来るそうです。

 ホテルでは、このプログラムの総責任者のビバリーとヘラルド夫妻をはじめ米国各州からボランティアでスタッフとして来ている方々に「待っていたわよ」と大歓迎されました。 私は回を重ねて参加するうちにすっかり打ち解けて、ここに集まる皆様の家族のようになりいろいろな話が出来る様になっていました。

 カナダ 17名、日本 3名、韓国 2名、シンガポール 3名、オーストラリア 7名、ニュージーランド 3名、香港 3名、ベルギー3名、イスラエル 3名、オランダ 3名、ドイツ 2名、英国 21名、トルコ 4名、ガーナ3名、14カ国からカデットとエスコート合計77名の参加者が各国から夜までに到着しました。

 翌日は、メトロに乗り首都の市内観光に出掛けました。 ホワイト・ハウス前で先ず写真撮影をして スミソニアン自然史博物館やオールド・ポスト・オフィス等を暑さにもめげず歩きまわりました。
 3日目は この活動のハイライトといえるペンタゴンと国務省の訪問で 緊張感に満ちた一日でした。
 

 2001年9月の同時多発テロ以来、一般の見学は大きく」制限されていますのでCAPの方の大きなパイプが当局とあり、苦心の結果IACE2010でも予約が取れたと聞きました。

 そのような事情が有りながら、私が2度も入れたのは幸せなことでした。
 「ペンタゴン」(国防総省)は、建物の形からこのように呼ばれています。 ここはアメリカ軍部の心臓部と言われていますが基地や軍事施設ではなく陸・海・空軍、海兵隊、沿岸警備隊の2万数千人の職員のいるオフィスビルです。 りりしい制服姿の若い軍人に省内を案内されて廻りました。 多くの私服姿の職員達と通路ですれ違う時には一般のオフィスビルと全く同じ様な印象でしたが、9・11のメモリアル・チャペルでは「この国で現実に何が起こったのか」への思いをはせると特に感傷的になりました。カメラの持込が禁止されていましたので写真が無いのは大変残念です。

 カメラや携帯電話は勿論のこと許されません。 パスポートと少々のお金だけしか持てないので夕刻にホテルへ戻るまで身の回り品が全く無しで過ごすのは大変難しいと感じました。 服装はトラベル・ユニフォームで各国のポロシャツ・グレーのパンツかスカート・黒靴と決められていた為に、かなり窮屈な思いをしました。 特に一日中黒靴で歩くので足の痛みに悩まされた人が何人かいました。 この件はIACEの活動中には大変注意を要することで、柔らかな素材の足にやさしい靴が必要でした。 私のルーム・メートのコリーンはシンガポールのエスコートで「靴に不安がある」と言って、前日にジョニーにスーパー・マーケットまで連れて行ってもらい、楽な靴を購入したのは賢明でした。
「国務省」(外務省)も昨年の通り見学が出来ました。 米国の外交官から講演を聞き、建物内を案内されるチャンスに恵まれたのは 参加者全員にとって素晴しい経験でした。

 7月23日は移動日。 カリフォルニア、コロラド・ワイオミング、フロリダ、ルイジアナ、メリーランド、ミズーリー、ネブラスカ、ノースカロライナ、テネシー、テキサス州へと別れて活動することになりました。 



 カリフォルニア州は、7名のグループで、真央(19才、大阪団)、祐斗(17才、千歳団)、カリーナ(18才、独)、ヤン・フィリップ(18才、独)、ベン(18才、英)、コナー(18才、英)の6名のカデットとエスコートの私で構成されました。 スタッフとしてワシントンDCに来ていたチャールスとガミラ夫妻と一緒に行けたのは大変心強いことでした。

 早朝4時のホテルのチェックアウトし一番早くの出発でした。
 ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港をコンチネンタル航空機のB737は6時に出発しました。 「このままロスアンゼルスまで飛ぶのか」と思って大変憂鬱になりました。 何故なら隣の席は大変体格の良い女性で、それに大きなハンドバッグを小脇に抱えていて私の座席は半分乗っ取られた形でホールディングが下ろせず、折角買った朝食は膝の上に乗せて食べ、反対側の肘掛に押し付けられて窮屈以外の何物でも有りませんでしたから・・・。

 ところが2時間半程すると突然機体が下降するのに気付きました。 何とヒューストン・ジョージ・ブッシュ国際空港へ着陸しました。
 知らされていた出発と到着時間に時差を入れて計算しても余りにも長いフライト・タイムの謎が解けました。
 便名の変更の無い経由に搭乗していたのでした。 さらに3時間のフライトでやっとロスアンゼルス国際空港に到着しました。

 カリフォルニア州移動と活動 
 カリフォルニア州ホストのペッギー(ご主人のラリーはIACE2009米国エスコート訪日団参加)とジム(アラバマ州在)の二人は、海外のエスコートや州のホストの豊な経験していてCAPのキャリアを積み重ねた頼れる素晴しい方々です。 
 2台のバンでこれからの活動拠点となる南カリフォルニアのオレンジ・カウンティへ向かいました。 集合地点として利用するホテルの会議室で最初のブリーフィングでは 私達へ素敵なプレゼントが用意されていました。

 ファイル(カリフォルニア州活動予定表・州の案内・名簿が地図・写真・イラスト入りで構成されている)、カリフォルニア州地図、ビーチ・タオル(タオルケット程のサイズの大きさ)、日焼け止めクリーム等が名札とタッグ付でトートバッグにセットされていました。 それぞれカラフルな取り合わせで見るからに楽しそうで「歓迎されている」と感じさせる心憎い気配りでした。
 これ等全ての品々が旅行中の私達のなくてはならない毎日の必需品であり この上ない重宝な道具となりました。 ファイルを作成したのは 私のホスト・ファミリーでもあるイラストレーターのチャールスでした。 感謝のみです。

 3組のホスト・ファミリーがカデット達を迎えに来て一旦各家に行き、夜は水着に着替えて6時から歓迎の「ビーチ・パーティー」でした。 日没は9時過ぎのため明るさは問題なかったのですが、海岸は強い風が吹き、涼しいはとっくに過ぎて寒さに震えました。
 最初にした事は持ち合わせの衣類や布の類を全て体に撒きつけました。 焚き火が出来ると、全員が火の回りに集まり暖を取りました。 カリフォルニアの気候は「夜になると上に羽織るものが必要」とは聞いていましたが、南でしかも真夏にこのような寒さを味わうとは想像し難い事でした。 温かくなりたかったので チップに辛味の強いサルサを付けて ひたすら食べていました。
 4時間近く寒さと戦いました。 7名全員が風邪一つ引くこと無しに過ごせたのは 奇跡に近いように思えます。
 次の日の朝は 第37代大統領ニクソンの生まれ故郷にある「ニクソン博物館」見学。 美しい庭園では、丁度インド人の結婚式が行われていたのが印象的でした。
 午後は、フルトン空港からオリエンテーション・フライトで、5機を次々にと離陸させ低一時間余りでロスアンゼルス地区上空をぐるりと周るダイナミックな活動でした。 前後に仲間の機体を見て、アナハイムでは、エンジェルス・スタジアム、ディズニー・ランド、ロスアンゼルス国際空港、市内、ハリウッド・サイン、ロング・ビーチを通過しました。

 夜はポロシャツから制服に着替えて、チーノ空港航空機博物館で「フォーマル・ディナー」へ参加でした。 地区のCAPの方々が盛装で集まり、ペギーのご主人ラリー司会を務めカラー・ガード入場、功労者表彰、祈祷、プレゼンテイション等、ビュッフェの食事をしながらプログラムが進みました。 格納庫で飛行機に囲まれての面白い会でした。
 7月25日は、カデットが待ちに待った「デイズニー・ランド」での一日でした。
 私は35年振りで、アナハイムの景色がすっかり変わってしまったのには、驚くばかりでした。 このテーマ・パーク周辺におびただしい数のホテルがひしめき合うように出来ていました。 かつてのゲートの目の前にあった駐車場は更に大きく拡大された施設に変身して、車は遥か彼方と言って良いほど遠くへ停めなければならなくなりました。
 日曜日なので混雑していましたが、アトラクションの待ち時間は、予想より短く思えました。
 入場料は日本とほぼ同じですが、ここの従業者には何人か招待出来る権利が有るそうで、何人かのCAPのメンバーが働いていたお陰で、私達は無料でした。 職務中にも関わらず、ゲートまでわざわざ私達の入場手続きのために来てくれたCAPの若い方々に感謝します。

 「ミナオは夜まで中に居る積もり? 疲れたら電話してチャーリーに迎えに来てもらったら」と朝出発する時にガミラに言われましたが、カデット達の迷子等心配が無いわけではなかったので、一日中デイズニー・ランドに居ることにしました。 もともと過激な乗り物等を好まない私は、アトラクションの中でも シアターで観劇を中心にじっくり座って静かに過ごしました。 有り余る時間の有効利用として、列に並びミッキー・マウスと写真撮影をして、現象をしたのは唯一の贅沢?
 夕食は 一旦全員が集合して 予約してあった「カフェ・オルオンズ」でルイジアナ料理でした。 スパイシーな味から 昨年のIACEで訪問したルイジアナ州を思い出しました。 
次の26日は 北へと移動の日。 アナハイムを出発すると ロスアンゼルスの東を通り 101号線でベンチュラ・カウンティに入り サン・フェルナンド、セミ・バレイを通過して 2台のバンはカマリロ空港まで北上しました。 ロスアンゼルス市内へは全く行くチャンスは有りませんでしたが 途中のダイナミックな景色を楽しめました。 この辺からの私達の食事は 元気な野菜をふんだんに使ったメキシコ料理が中心となってきました。 ベンチュラのレスキュー隊を訪問して ヘリコプターでの捜索と救助の方法の講義を受けました。 救助した人達につける札、対象者によって違う運ぶ道具と方法等を知り その厳しさに改めて驚きました。 実際に7名でヘリに乗り込み ドアを開けたまま約一時間の飛 行を体験しました。

 轟音をたてて砂漠の山岳地帯に着くと地表すれすれにスリリングな飛行や、テニス・コート、ゴルフ・コースのある高級住宅地はそれぞれが大きなスイミング・プールを備えていて、その中にはゴルファーのタイガー・ウッズの邸宅も見えました。
 海岸では夏休みをキャンプで過ごす人達が、私達の乗るレキュー・へりを見上げて、しきりに手を振っていました。
 その夜は「グッド・ナイト・イン」に宿泊で、大ショッピング・モールの隣に位置するので、カデット達には絶好の買物チャンスとなりました。 しかしこのモーテルは幹線ハイウェイ沿いにあり、一晩中走行する車の音が大雨の様に聞こえて、私もルームメイトのペギーも眠りを妨げられました。

 27日は、制服を着て州の中央部サンタバーバラ・カウンティへ出発しました。 101号線のカリフォルニア州名所の美しい海岸線を走り、エルランチョのレーガン元大統領の牧場近くも通りました。
 移動するバンの中では、この日もカデット達の睡眠時間で、途中牧場や野菜、ブルーベリー、葡萄、花の畑が続く緑の景色は誰も知らなかったと思います。
 「バンデンバーグ空軍基地」は、8千人が従事している大きな施設でした。 全米ミサイル従事者の訓練基地で、ICBMの訓練所の見学が許されました。 もちろん入所には厳しいセキュリティー・チェックがありました。 57㎢余りの広大な敷地は、かつて西海岸のスペースシャトル着地となったこともあり 3マイルもある滑走路やミサイルの発射台が並ぶ壮大な景色でした。 
 午後は、1787年に設立された「ラプリズマ・ミッション」の見学。 サンディエゴに始まった伝道所は、カリフォルニア州の重要な歴史の一つで、各地に散在していてその中の一つを訪ねました。 当時の厳しい状況はヨーロッパからの入植者には、耐え難い生活が待っていた様子が偲ばれる上に1812年の地震にも屈する事無く移転をして伝道所を守った事を知り、古い村の景色を見て切ない気持ちになりました。

 この夜から3泊をサン・ルイ・オビスポの「マリオット・コートヤード」に宿泊しました。 この地区は、ホストのペギーの住いがあり彼女が帰宅したので私は一人部屋となりました。 ロビーにある暖炉には終日火が燃えていて、外から帰ってきて暖をとるのが楽しみの一つでした。

 28日は、新聞王のウイリアム・ランドルフ・ハーストが1947年に建てた「ハースト・キャッスル」に出掛け、建築中の映画鑑賞とガイドツアーに参加しました。 アメリカにもお城が欲しかったのでしょう。 当時はチャーリー・チャップリン等のハリウッド・スターが招待されて優雅な時を過ごした様子で、象やキリン等のいる動物園も敷地内に有ったと言います。 その名残としてシマウマが時々見られると聞きました。
 午後は象アザラシの生息地に寄り、パソ・ロブレスの祭りに参加しました。 近郊から家畜・野菜・園芸・ワイン・料理等のコンテストの発表や産物の市が開かれていました。 地方の人々の生活の一端を知る良い機会でした。 この頃には、カデット達の行動パターンがすっかり出来上がり、残念ながらヨーロッパ人と日本人の二つのグループに全く別れてしまい、間に出来た壁がどんどん高くなってきて何処へ行くのにも、何をするのにも、一緒に行動しようとする雰囲気が無くなっていました。 彼等に話しかけても避けられているように感じられ、会話をほとんどしなくなってしまったので、マオの英語力が発揮できなく本当に残念な思いでした。
 29日は、モロー湾での「カヤック」で地区のCAPのカデットも集まり、11時は水着に着替えて昼食を持って、湾の中にある島に漕ぎ出していきました。 
 私は、余りの寒さと後半分の日程が残っているのを考慮して、健康を温存する為に見送りの方にまわりました。
 元気に漕ぎ出して入ったペッギーは次の日に筋肉痛で大変な思いをしてしまった様です。
 小さな町の祭りで夜の繁華街を歩きました。 夕食に私達日本人は アジアン・エスニック料理の洒落た店に入り 久し振りのお箸での食事で寛ぎました。

 30日は、移動日でさらに北上しました。
 途中に足を伸ばす為に立ち寄った「ギルロイ プムレミア・アウトレット・モール」では、カデット達のさらなるお楽しみの時間でした。 ショッピング・タイムが有る度に 嬉しそうに袋を下げて店から出て来るので、日を追うに従って、彼等の荷物は着実に増え続けているように見えました。  
 午後にサン・フランシス地区に入り、サンフランシスコ湾の東岸(市内の対岸)にあるヘイワードでCAPの方から銃の講義を受け、射撃場でライフルとピストルを撃ちました。 ガン・シューティングでいつも控えめなユウトが類まれな才能を披露しました。
 沈着冷静な彼が集中力で初めての射撃とは到底思えない命中率で圧倒しました。 きっと自信を持てたと思います。
 夕食は近くのサンレアンドロのポーキーズに、地区のCAPの方々集まり、歓迎のピザ・パーティーでした。
 数種類用意されたピザの中には、アーティチョークの入っているものがあり、これぞカリフォルニアという私の大好物を味わうことが出来て大変幸せに感じる一時でした。
 カデット達はホスト・ファミリーと家に行き、ペギーとジムと私の三人は、サンフランシスコ空港近くのサンマテオのヒルトン・ホテルに宿泊でした。
 31日は、サンフランシスコ市内観光で一日を過ごしました。 先ずフィッシャーマンズ・ワーフに行き「ギラデリスクエア」でチョコレートを買い、ケーブルカーに乗り、久し振りの大都市に来て、典型的な旅行者らしい行動パターンをたどりました。
 港の賑わいの中を人や車を避けてぬう様に歩き お決まりのお土産を手に取り 花や緑に縁取られた美しい建物を眺め、急な坂道を走るケーブルカーでは風を楽しみ、昼食はハンバーガーをパクパク。
 午後は「アルカトラズ島」へピア33からクルーズツアーに参加しました。 サンフランシスコ湾の街から2.4kmにあり、1963年までの連邦刑務所が観光名所となっています。
 冷たく強い潮流のために脱出不能と言われていて刑務所の中の刑務所であり、アル・カポネ、アルビン・カービス、ロバート・ストラウ等
の凶悪犯が収容されていたのは有名な話です。
 当時のまま残さた刑務所の独房が想像出来るように効果音も入れて解説付きで見学が出来る様になっていました。
 建物の外に出ると凄まじい強風が吹き 1962年に3名が脱走したというがその結果、成功したか否かは謎になっている理由も成程と思える、厳しい環境であることが解りました。
 夕刻は ゴールデン・ゲート・ブリッジを渡りヴェスタ・ポイントで写真撮影をしました。
 誰もが事を考えるので このベスト・ビュー・スポットは人と車でぎっしりでした。 
 夕食は、米国の中華料理のチェーンのパンダ・エクスプレスでした。 もちろんマオとユウトはお箸の食事に大喜びで、嬉しそうに食べるにこやかな顔が見られ、ホッとしました。
 8月1日 カリフォルニア州での活動最後の日は「オリエンテーション・フライト」で一時間余りのサンフランシスコ上空飛行を楽しみました。 マオはウキウキとして前に座り操縦もさせてもらえ、日頃のモヤモヤを解消した様子でした。 ユウトは、マオに「こんな時に寝てしまうなんて勿体無い」と離陸前から寝てしまったのを、惜しまれていました。
 きっと、英語での生活に加えて、はじめての事づくしが続く毎日で、疲れ果ててしまっていたのでしょう。
 カデット達はホスト・ファミリーに連れられて、私達が滞在していたホテルに来ました。 あくる日の早朝出発に備えて空港近くに宿泊するためでした。
 夜は対岸のパシフィック地区司令部で「お別れ会」でした。 体育館の様に広い会場にデリバリーのBBQビュッフェで、ホスト・ファミリーを含むCAPの方々が数十人集まってくださり、会話が弾んで和やかな会となりました。 ペギーのご主人ラリーは、わざわざ日帰りで出席して会を盛り上げて下さりました。 年配の方は日本駐留時代の想い出話と、若いカデット」達は活動の様子や日本に留学する話題等で、親しみを込めて出会いを喜び合いました。 
 最後に日本から持参した紙風船をふくらませて、トスをして体を動かし友好を深めました。 「懐かしい」と言ってくださる方もいました。 プレゼンテーションでは、10日間の州活動を振り返り、ペッギーが声を詰まらせ、私は万感の思いで目頭が熱くなりなりました。

 8月2日は、ワシントン・DCへの移動日で、未だ朝が明けきらない内の4時半にホテルを出発しました。 サンフランシスコ国際空港は、チェックインやセキュリティー・チェックに時間が掛ると聞いていましたが、やはりその通りで、長い列に並びしっかり待たされました。
 とうとう二人の州ホストのペッギーとジムとの別れの時が来ました。 「本当にありがとう」「これから気をつけて・・・」と互いにいたわりの声を掛け合い、手を振りました。

 ホテルのレストランが空いていませんでしたから、米国では国内線の無料での食事のサービスが無い為に、この日も朝食を空港で買う必要が有りました。 ユウトは「要らない」と言うので、「今日も2つのフライトを合わせるととても長くて、乗り換え空港では時間が余り無いので、今の内に何か食べるものを買わないと辛い思いをする」「ホテルに到着するのは、夕刻になるのでお腹が空きすぎるし、健康にも良くない」と説明しましたが、どうも北米大陸を西から東に横断する距離感が無い様で、納得してもらうのに時間が掛りました。
 デルタ航空機B737は7時にサンフランシスコ国際空港を離陸して、4時間半のフライトでデトロイトに到着でしました。
 一時間の乗り継ぎ時間で、MD88に乗り換え、1時間半のフライトでDCAと呼ばれるワシントン・ナショナル空港に着陸しました。 若いスタッフが迎えに来ていました。 6時にホテルに到着しましたが、きちんと昼食を取っていなかったので、誰もが空腹で夕食を待ち遠しく感じていました。
 取り分けマオは他の州を訪問したカデット達とDCでの再会をとても楽しみにしていたので、非常に嬉しそうにしていました。 続々とホテルに入ってくるカデットは、興奮してせわしなく有人を探しあっていました。 私もエスコータやスタッフの方々と親交を深め、どのようにカリフォルニアで過ごしたかを話しました。
 夕食後は、早くホテルに到着した州の順に半数のグループが、各州での活動のプレゼンテーションをしました。 写真や効果音を入れて各々工夫を凝らしてプログラムの内容発表でした。 毎回の事ながら、カデット達は夜遅くまで、プールで泳ぎ、あちこちの部屋に集まり、ワイワイ・ガヤガヤと情報交換?に忙しそうでした。 シンガポールのエスコートと私も、次の日の予定や土産話に花を咲かせました。
   次の日は終日観光で自由行動日。
 スタッフが一緒なら市内の何処へでも行く事ができるので、アイオワのスティーブに「ホワイトハウス」、スミソニアン協会のアメリカ美術館別館「レンウィックギャラリ―」、「オールド・ポスト・オフィス」、「スミソニアン航空宇宙博物館」へ案内してもらえました。 ユウトと私はその他に「国立アメリカ・インディアン博物館」へも足を延ばしました。

 この日のグループは主にカナダと日本の2カ国で 非常に長閑に平和な時となりました。 仕上げは「ペンタゴン・シティ・ショッピングモール」で2時間余りの買物でした。
 夕刻にホテルに帰ると、カデット達が口々に「ミナオありがとう」と一日の行動への感謝の言葉を、私に掛けてくれました。 この様な事は、州のグループからは有りませんでしたので、非常に嬉しく感じられました。

 夕食は、州での活動の後半のプレゼンテーションで、カリフォルニア州へも順番が廻ってきました。
 しかし、マオとユウトは作成に参加するチャンスが無く、出来上がった写真と説明を前にして立っているだけでした。 英国とドイツの4人のカデット達だけが発表して、日本人を全く無視していたのは、納得いきがたい思いでした。

 その後に各国のプレゼンテーシで、日本からも感謝状と金杯をビバリーに贈呈しました。 IACE2010全てのスケジュールは終了でした。

 カリフォルニア州の参加の4人のカデット達を集めて、「一緒に過ごした事への感謝と労いの言葉そして其々の無事の帰国を願っている」と伝えましたが、何れも興味なさそうに他のカデット達と話をして、大変そっけない態度にあきれ果てました。 最後まで失礼な行動には非常に怒りを感じました。
 会場を出ると、各国のカデットやエスコート達とそれぞれ友情を確かめ合ったり、別れを惜しんでいました。 私もスタッフの居る事務所に行き、州での活動等あれやこれやと話し込み、本当に家族的な雰囲気を味わいました。「ミナオはいつもニコニコしていられるのね」とビバリーが言うと、ほかのスタッフ達もうなずき「どうして?」と問われました。 「楽しいからよ」が私の答えでした。 「また来てよ」と声を掛けられ またにっこり。
 8月4日は、帰国日。
 一番のチェックアウトで、シンガポールと韓国も一緒で8時30分にホテルを出発でした。 
 ANAのチェックインも荷物の重量には厳しく、預けるスーツケースはもちろんの事機内持ち込みのバッグの重さも制限をきちんと守らなければなりませんでした。
 12時30分に離陸したB777-300は、13時間余りのフライトでした。 長いフライト中には、揃いのポロシャツを着ていたので「何をするグループ」かと声を掛けてくる方と話が弾んだり、赤ちゃんずれのカップルとも親しく会話をし、赤ちゃんを抱いたりして楽しみました。

 成田到着は、8月5日の15時でした。 
まさに3人共に無事の到着で、入国する時にユウトが、「あー 日本語だ」とサインの漢字に感動の言葉でした。 やはり言葉にはストレスを感じていたのだと思いました。 日本語と箸の生活に戻れてホッとした瞬間だったことでしょう。 お疲れ様。

 IACEの4回のエスコートの経験は、私に取りましては、一つの財産となる事でしょう。
 2005イリノイ州、2006コロラド州、2009ルイジアナ州、そして今回のカリフォルニア州それぞれの地域の特色あるプログラムでの活動を体験し、多くのCAPの方々にお目に掛かれ、それ以上沢山の人々との交流の機会に恵まれました。
 そして各国のエスコートとカデット達とも友情を感じ合いました。
 このようなチャンスを与えてくださった方々へ、心から感謝を申し上げます。

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第45号 平成22年 6月1日発行

「B5、A4のサイズも知らなかった」


顧問 渡辺 勇

 この度、航空振興財団から表彰状をいただきました。大変光栄に存じております。
 20年以上も前の事、創立間もない航空青少年団羽田支部(当時はそう言った)伊沢初代団長の下、野原理事からの要請で役員をお引き受けしました。当時は印刷用紙のB5もA4も知りませんでした。
 たまたま、戦後米軍の航空通信所が芝愛宕山に開設され、航空局嘱託としてサービスに出向しました。新橋から焼け野原を歩いて通いました。そこでタイプライターを覚えたのが後にワープロやパソコンの役に立ったのです。
 少年団員20人以上を引率して高尾山へ登ったことも、バスで蒲田駅から横浜大黒埠頭へ行き、パラセールで一日駆け回ったこともあります。
 今事務所にある机や椅子も運輸省から払い下げて貰い、霞ヶ関の地下室倉庫から運び込みました。
 野原二代目団長、池田三代目団長の頃役員辞任が相次ぎ、会が機能不全に陥ったこともありましたが、その折、久保新団長がお引き受け下さり、起死回生、大変助かりました。
 前田理事の3度にわたる訪米交換学生のエスコートにも感謝しております。新井団長の下、杉本、狩谷副団長の行事運営努力、飯沼新理事のパソコン操作による情報通達等本当に感謝しております。
 入団当初の可愛い少年少女が中学生、高校生、大学生と逞しく成長しさらに社会人に育って行くのを見るのは誠に楽しいものです。最近はよる年波に勝てず足腰が弱くなりました。お荷物にならなければと思っております。(2010年5月)

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第44号 平成21年12月1日発行

「航空会社は色々な事があるから面白い」


団長 新井典郎


 次のコラムはかっての同僚が5年ほど前、日本航空のOB会報に投稿したもので本人の了解を得て抜粋し掲載いたします。皆さんが将来どんな職場でも色々な面白い体験をするかもしれませんが航空会社にもこんなことってあるのだなという事を紹介しましょう。

 「事実は小説より奇なり」 新橋正武(元日本航空運航業務室長)アメリカの東の端はどこかとなると知る人は少ない。それはアラスカ。(注世界地図を開いてください。地図上の最も東は東経180度ですね)その地で体験した不思議な事実。

−旅客機が魚と衝突−
 飛行機が鳥と衝突することは世界各地で発生しており、機体やエンジンに大きな損傷を与え、重大事故につながることもある。ある時、他社B727が離陸直後何かに衝突。操縦席のガラスにひび割れが入り、前方が見えなくなり、エンジンも不調となった。機長は緊急事態を宣言し、空港はすぐ閉鎖された。

 空港当局は滑走路付近の鳥が原因と考え、直ちに点検したところ大きな魚が散乱して、その中の数匹は刺身ならぬ魚のタタキ。約20分後、100名近いお客様を乗せたB727は無事帰還した。

 海の近いアンカレッジ空港で捕った魚をついばんでいた鳥の一群がエンジン音に驚き、魚を抱えて飛び立ったが空中で落としてしまい、そこにB727が突入した事故と判明したのだった。その日は4月1日(エイプリルフール)。

−UFO出現−
 11月ボジョレヌーボーを満載したパリ発JALB747貨物機は、到着1時間半前突然UFOが接近、機長は航空官制に緊急事態を告げ、急旋回して衝突を避けることができた。近くの米空軍基地から最新鋭戦闘機2機が緊急発進したがUFOは発見できなかった。着陸と同時に連邦航空局FAAの調査官の調査を受けたが不明であった。

 翌年1月下旬再びUFOが出現。今回もまたパリ発、チーズ満載の貨物機、同じ乗員、同じ空域、気象条件、月齢、時間もほとんど同じ状況である。北緯70度の現地、日の出は午前11時半、日没は午後1時、名ばかりの昼間、午前9時はまだ真っ暗闇である。オーロラの乱舞するはるかな天空からは北極星が静かにこの様子を見守っていた。

 冷戦中の米ソはアラスカで隣接しており米空軍レーダー記録は完壁であったが残念ながらUFOは全く写っていなかった。FAA調査報告書は“UFOは法を破りJAL機に接近しすぎた。今後UFOが出現したら航空法違反で逮捕する"と発表した。逮捕状に恐れをなしたか、その後UFOは現れていない。昭和末の話である。それにしてもUFOの逮捕状の時効はいつなのか?私は未確認だ。

−好天気過ぎてダイヤ大混乱−
 到着便がカンパニーラジオで何回も空港の気圧を確認してくる。地上気圧が高過ぎ、気圧高度を示す計器の当時の運用可能規定値を超えそうなのだ。出発便は気圧が高過ぎてエンジン推力設定が許容範囲ギリギリである。ボーイング社もJAL技術陣も予想すらできなかつた1083hPaの高気圧に空港が覆われたのだった。航空機の運航は規程に従つて定められた許容値以外は絶対に許されない。安全の基本原則である。ブッシュ大統領との会談に臨んだ竹下首相特別便は機種がDC10からB747に変更され、帰路はロサンゼルス経由の成田直行となった。

 当時、JAL便はソ連上空通過ができず、すべてのヨーロッパ便、米国貨物便はアンカレッジ経由で、駐機場にはJALジャンボ機が12機も並ぶ時間帯がありまさに経済大国日本の象徴だった。それほど多くの便の輻輳するアンカレッジ空港の離着陸が不可能となったのである。それも良すぎる天気、快晴無風、絶好の日和。異常高気圧が原因である。数日間にわたり50便にも及ぶ欠航が相次ぎJAL国際線ダイヤが正常に戻るまで1週間を要したのである。

 抜けるような青空が広がり、濃縮された大気を心ゆくまで吸い、爽快この上なし。空港からは北米大陸最高峰のマッキンレーが一段と鮮やかに見えたが、その下では高気圧の淵で強風が吹き荒れており、有名な冒険家であつた植村さんが登山中に行方不明となった。
 多くのお客様や首相の旅程を狂わせ、多量の貨物輸送を混乱させた異常高気圧の体験であつた。 (注 地上高気圧世界記録1968,12,3ロシアのアガタにおける1083,8hPa)

 ※ホームページ管理者:「はねだ」には低学年団員用に難しい漢字にはルビがふってあります。

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第44号 平成21年12月1日発行

「民間航空の動き」


顧問 久保俊郎

 

1.静岡空港は今年3月、2500メートルの滑走路新設でオープンの予定であった。しかし滑走路端から1400メートルの地区に立木が存在し、これが安全着陸を阻害するため、暫定的に滑走路を短縮して使用する計画もあった。いろいろ協議の結果、フル使用のため立木を伐採し、代わりに町長は退任する条件で、6月にオープンした。就航予定路線は札幌、沖縄、ソウル線だが、全国で99番目に出来た空港が、果してこの不景気の時代に予測通りの集客ができるかどうか不安である。( 6月20日)

2.ナショナル・フラグキャリアを潰すな。戦後最大の第3セクターとしてスタートした日本航空が、この一年余の財政、金融の不具合から、存亡の危機に瀕している。会社は

*企業年金制度の改定(支給額の引下げ)

*特別早期退職の実施
*国際、国内線で撤退を含む路線の整理、縮小
*貨物事業は他社との提携を含め、抜本的事業改革等
を進めたが、結局国が1000億円の危機対策融資を実施することになった。今までも同時多発テロ後、1540億円、イラク戦や新型肺炎SARSが出た03〜04年度に1100億円が融資されている。浮上するために、また国頼みではなく、自力で何とか日本を代表する航空会社に立ち直って欲しい。(7月10日)

 

3.国が管理する空港のうち、22空港が赤字経営に落ち込んでいるという。空港の収支は社会資本整備事業特別会計で管理されているが、営業損益は別表の通りである。
 赤字の大きいのは福岡、那覇、新潟、羽田等だが、黒字は大阪(伊丹)千歳、鹿児島、熊本で、東京からの利用度、アクセスの良さ等で想像できる。株式会社組織の成田、関西、名古屋は未調査。
 航空会社は不採算路線から撤退する動きも相次いでいる。

4.所謂ジャンボ機といわれるB747-100型機(500人乗り)が、1970年(昭和45年)に日本(羽田)に出現して約40年、日本の空を引退することとなった。当時は大量高速輸送時代として、DC10型などとともに、国際線をはじめ、日航が68機、全日空が23機使用し、多客期、台風などでスケヂュールが乱れた時には、大型機としておおいに活躍した。現在400型機が出現して、主として燃費と騒音の問題で、在来機はクラシックと呼ばれる様になった。)

 私が羽田で初の就航を見たのは、PAAの世界一周機で、同社は職員全員で春の一便を目指して毎夜、冬の寒さをついて、手荷物、貨物の取扱を訓練していた。(7月24日)

 

5.「ツェッペリン伯号来る」とて(空中)飛行船がはじめて日本の空にやってきたのは昭和4年(1929年)8月というから、丁度80年前で、私は4才の時であった。
 全長235メートル、高度600メートルというから、日本では複葉機が飛んでいた時代だ。
 「UFOが飛んできた」という感じに似たものではなかったか。だが黄金期は短く、37年に事故があり、一次大戦中にすべて解体された。
 日本では戦後97年にツェッペリンNT号を作成し飛ばした。羽田に基地をおくことは、その速度や高度の関係で輻輳する定期便の合間をとって飛行することは難しく、しかし、ゆったりと眼下の景色を楽しみ、レストランの食事がとれるとあっては、今後世界一周の船の旅と並んで楽しませるかも知れない。(8月19日)

 

6.民間航空界は人の輸送も、貨物の輸送も苦境に立たされている。そこで日本航空は日本貨物航空と統合して貨物輸送の恢復を図る。全日空は顧客のニーズにすぐ応えられるよう那覇空港をアジアの貨物事業の中継拠点とし、成田、北京、バンコク等国内外8空港を夜に出発、深夜那覇に着いた荷物を目的地別に積み替え、朝までに8空港に輸送するという。いずれも来春を目途としている。ただし、貨物事業の立て直しは、世界経済の回復に左右されるので、実現には時間がかかると見られる。(8月22日)

 

7.かって世界航空機産業の1/4を占めたロシアは、競争力を失い、欧米のボーイングやエアバスヘと切り替えを進めている。最大の理由は性能にあり、ツボレフやイリュウシンは燃料消費量は前記欧米機の2倍、他の維持費でも25%高くつくという。航空機の生産でも昨年旅客機は13機で航空会社に納入したのは6、7機。業界で唯一競争力を持つのはリージョナルジェット(地域間輸送機)のスホイスーパージェット(SSJ)リージョナルジェットの分野ではプラジルのエンブラエル社、カナダのボンバルデア社が先行、日本、中国も新規参入を狙ってライバルは多い。「長期的発展のためには人材不足の解消と開発、設計から大量生産、航空会社の購入という関連全体を立て直す必要がある」と関係者はいっている。(9月 8日)

 

8.毎日新聞社機ニッポン号が世界一周を果して70年が経つ。
 中尾機長(初代東京国際空港長)は、陸軍委託操縦訓練生の一期生で、三菱重工のテストパイロットを務め、 ドイツルフトハンザ航空で最新の無線航法を学び、ニッポン号のパイロットに選ばれた。この飛行を終えて6万キロの航程のあと「決して私たちにとってゴールではないと思っている。私たちはさらに次のマイルストーン(標石)に向かって進まねばならぬ」と記した。今日の羽田の姿を見透かすように。ついでながらニッポン号の快挙の2年前(昭和12年)に、朝日新聞社の神風号に京―ロンドン間(1万5千キロ)の往復飛行をしている。(9月9日)
 

9.前記ニッポン号は1939年8月26日10時27分、羽田を離陸した。3時間余で札幌着。翌27日米アラスカ州ノームまでの北太平洋横断。午後10時過ぎには乗員7名が酸素不足で次々に失神、高度6300メートルで約1時間全員倒れたまま未知の海上を飛行。

 中尾機長の手記には「私たちが眠っている間にもニッポン号は正しい針路で快翔し、私たちの代わりに自動操縦装置が完全に操縦を続けた」16時間弱で太平洋横断に成功し、ノームで大歓迎を受けた。
 29日にフェアバンクス、30日にカナダのホワイトホース、31日にシアトル着2泊。中尾機長はここで「日本のリンドバーグだ」とたたえられた。 (9月10日)
 

10.日本航空は経営不振から、従来の路線縮小、人員の削減に取り組んでいるが、国土交通省は「発着枠の配分基準検討会」で「地方経済活性化枠」の一部変更を検討しているようだ。
 羽田と地方中核都市を結ぶ路線13のうち、従来全日空に9路線、日航に4路線配分していたものを、全日空7路線、日航6路線にする方向で検討している模様である。(9月10日)


11.経営再建中の日本航空が、米デルタ航空と資本、業務提携交渉に入ったことが、11日 明らかになった。日航は収支改善に向けたリストラ策を策定中だが、自力の再建策だけでは不十分と判断。
 世界最大の航空会社の支援で立て直しを目指す。なお全日空は07年、韓国アシアナ航空と資本、業務提携を結んでいる。(9月12日)


12.ニッポン号は汚れの目立った機体を洗い、1939年9月2日、オークランド、そして数万の人に迎えられてロスアンゼルスに着き、日本の少年の挨拶を受けた。「日本の飛行 機が来ると聞いてうそだと思いました。ところがおじさん達は本当に太平洋を越えて大変な仕事をしてくだ さった。これで僕たちも「日本人だってやる時はやるんだぞ、と友達に胸を張れます」乗員は皆、こらえきれずに泣いた。
 4泊してアルバカーキヘ。8日はシカゴに快適飛行。
  ミシガン湖の向こうに大きな飛行場が見えた。(9月13日)

  

13.「米国の本当の力は政治的にも外交的にもシカゴを中心とする中部地方にある。この勢力を無視して素通りしてはいけないJ。1939年9月初旬、一行は米ロスアンゼルスで ロッキード社のロバート.クロス社長に勧められたこの言葉を痛感したのはシカゴ飛行場だ。1700メートルの滑走路が7本もある。当 時東京(羽田)はまだ800メートルの滑走路2本が整備されたばかりだった。

 9日、空から見たニュウヨークは煤煙に隠れていた。ニュウヨークには8日間滞在したが、頭を痛めたのは欧州情勢だった。 1日にド イツ軍がポーランドに侵攻し、3日には英、仏がドイツに宣戦を布告し、第2次世界大戦が始まっていた。「行けるところまで行く」 が質問に対する乗員の回答だった。(9月13日)


14.9月11日15時30分頃、岐阜県高山市の奥穂高岳(3190メートル)近くの山中で、遭難者の救助に向かった防災ヘリ(若鮎U)が墜落し、操縦士等乗組員3人が死亡した。地 上に降りた高山署員と救助隊員が遭難者をロープで上空のヘリに引き上げるための準備作業をしていた時で、後部のローター(回転翼)が急斜面の山肌に接触してバランスを 崩したとみられ、機体は大破し、一部は炎上した。山岳部の急ながけがそそり立つ、むずかしい場所ではあったが、一遭難者の救助に向かったヘリが墜落したことは何とも批 判し難く、今後の対応が注目される。(9月14日)

15.米デルタ航空と資本提携交渉を始めた日本航空に対し、米アメリカン航空の親会社AMRも支援に名乗りを上げていることが13日分かった。日航は当面デルタと交渉を優先さ せる考えだが、アメリカンは日航と同じ国際連合グループに加盟し、関係が深い。航空業界世界1位と2位による「日航争奪戦」に発展する可能性もある。(9月15日)

16.日本航空の経営不振に関し、新内閣の国交大臣は、経営再建を支援するための「有識者会議」については、「白紙に戻す」。また全日空との2社体制はこれからも維持しな ければならない」と語り、引き続き国交省の主導で再建シナリオを描く姿勢を示した。

ここまでは良いが、国交省が取り組むべき最優先の課題として「観光立国」のさらなる推進をかかげ、その為には「羽田の役割が大事になる」と述べた。私がひっかかるの は「観光立国Jの問題で、航空は観光立国のためのみではなく、すべての輸送機関が観光に役立ってはいるが、何も観光のみではなく、人を運ぶにはいろいろな用件で動きが あり荷物の輸送も今の経済立て直しに重要な役割があることを主張したかったのである(9月19日)

17.米アメリカン航空、英ブリテッシュエアウェイズ、豪カンタス航空が経営危機の日航に共同で支援を申し入れた。3社はいずれも日本が加盟する国際航空連合「ワンワール ド」のメンバー。ライバルの「スカイチーム」に属するデルタは、日航に金融支援するとともに、自社グループに引き込み、アジア戦略を強化したい考えだ。(本稿11参照)3社側は、 日航がワンワールドから離れると、共同運航の解消などで5億ドル(約450億円)の損失が出ると強調。さらに日航がスカイチームに移ると日米路線 の約6割を同グループが握ることになる。今後の成り行きが注目される。(9月19日)

18.1939年9月16日ニッポン号はワシントンに到着。大統領に会見を申し込んでいたが、第2次大戦への対応で忙しくかなわなかった。18日にマイアミに飛行。退役大佐から 「飛行場にイアハートの記念碑があるから花輪を捧げて貰いたい」と頼まれた。イアハート氏は初めて大西洋横断に成功した女性パイロットであったが、37年南太平洋で消息を絶った。19日は 米国を離れエルサルバドドル)に向かう。

 キューバ島周辺は「水の底までさえて藍色に澄んでいる」かつ、空港は山にかこまれた小さな飛行場であったが、中尾機長は市街上空を旋回して、 機体を軽くして見事着陸。在留邦人に歓待された。乗員の一人が腹痛を起こしたので2日遅れてコロンビア.カリにに向かった。カリは高山に囲まれた盆地で山すれすれに 飛んで着陸した。市長にすすめられ数泊したが、日本の田舎町とそっくりの風景に望郷の念がわいた。

19.日航の再建について、この10日間の動きはまことに目まぐるしい。従来は、数千億円の補助金を受ける、 国内国際路線の整理縮小、6800名の職員整理、更に米デルタ航空、アメリカン航空などの資産、業務提携であった。

9月25日には国交省は「JAL再生タスクフォース」を設置し、10月末をめどに再生計画の骨子をまとめるという。

ところで、日航の再建をめぐる最大の負の遺産は、国の航空行政にあり、採算を度外視して地方空港をつくった結果、運航を強いられた日航は多 くの路線で赤字をかかえた。撤退しようにも抵抗が強く、路線の廃止、撤退が進まなかった。

政府は22年度に、羽田、成田の拡張を通じて国際競争で優位に立とうとしているのでタスクフォースの手腕が期待される。 (9月26日)

20.1939年9月23日 ニッポン号はベルーのリマに向かった。
24日はチリのアリカ。25日はサンテイアゴヘ海岸沿いに飛行。中尾機長は「一番悩まされたのは南米全土を覆っている雲と霧だった」どの飛行場も雲霧の層を突き抜け、い ったん海面に出て飛行場を確認し、低空から着陸する技術を要する。27日はアンデス越え。6000〜7000メートルの雪山を越え、酸欠を防ぐため、病院用の酸素球を3個用意し た。5時間弱でブノスアイレス着。29日ブラジルのサパウロは深い霧で着陸出来ずサントスに不時着した。(9月30日)

21.羽田は現在3本の滑走路で、年間発着回数は29.6万回。08年の利用者数はで全人口の半分を占め、アトランタ、シカゴ、ロンドンに次ぐ世界第4位の空港である。

 しかも国や都が6700億円を投じて2010年10月末までに完成で第4滑走路を建設中である。この建設法が今までの埋め立て構造に加え、多摩川の流れを妨げない桟橋構造を採用(左図接続部参照)している。滑走路の長さは2500mだ が、その人工島の大きさは3100×500mであり現空港と結ぶ連絡誘導路は620mの巨大桟橋である。

 これが供用開始されると年間発着回数は1.4倍となり、年間40.7万回までが段階的に引き上がる。さらに今回の目玉になるのが国際線定期便の 大幅増である。具体的には、昼間には東アジア各国、深夜早朝時にはロンドン、パリ等欧米を含む各国が1日40便ほど加わる予定である。成田空港の約3割の国際線が加わる 水準である。従って新国際線ターミナル地区の建設も進んでいる。

ビルは5階建てで、プラネタリウムや乗継ぎ客の休憩施設を含む。駐車場として7階建て、2300台を収容する。 国際貨物の処理に隣接施設を建設する。宿泊施設や飲食店を含むと一応の経済効果が期待できる。
これらの計画によって、私が"はねだ"に記した空の日に関する記事で力説した今こそ羽田航空博物館を建設する絶好の機会だと考える。(10月1日) (上記は週間東洋経済10.3号参照)

22.1939年9月29日にサントスに不時着した。日本人の多いサンパウロを望んだが、陸軍の指示でやむなくリオデジャネイロヘ、10月4日にはナタール に飛行した。いよいよ難所の大西洋横断となる。
9月中に欧州で戦争が激化、 ドイツ、フランスも運航を停止していたが、無線で気象情報を提供してくれた。
5日0時48分ナタール発13夜の月は幻のごとくであった。11時間で到着予定のところ、逆風のため1時間遅れ、ダカールが突 然視界に入った。結局12時間の太西洋横断で、太平洋に次ぐ大飛行であった。ダカールも戦争体制で、6日早朝仏領モロッコ に着陸して、あらためて砂漠のカサブランカヘ到着し、いよいよ戦乱の欧州上空飛行となるのである。(10月7日)

23.二酸化炭素(C02)の排出削減のため、全日空は昨年から乗員訓練所の実機フライトをシュミレーターに切替え、東京−大阪間1万9千キロ往復分29万キロリットルを削減した。
日本航空は航路について気象条件の良い飛行経路を選び、かつ離着陸時に走行距離が短いスポットを選ぶ。また、機体や機内の部品にも及び、タイヤ素材で80キロの減量、 機内食の皿の軽量化、機内誌質の改良にも及ぶという。(10月11日)

24.空港問題と政治主導:羽田から搭乗率90%で飛来したB777(525人乗り)が福岡空港に着陸した場合、停留時間4時間と仮定して、着陸料、保安料、航行援助施設利用料の合 計86万3千円を毎回国に支払う。こうして20の国営空港が1年間に受け取る空港使用料が2084億円。これを主な財源として空港を新設する仕組みが「空港整備勘定(空港整備 特別会計)− 空整特会)」である。
これがムダな空港を造るモトであり、見直しを求めるのが前原国交相である。これに対し財務省幹部は「いまや空整特会最大の支出は羽田の再拡張(4本目の滑走路新設)であ り、それに過去の空港整備に費やした借入金の返済や、管制官の給料等の維持費はどうするのか?」「ムダな空港が出来たのは特別会計のせいではなく、政治ですよ」という ことで、新大臣は今から勉強が大事です。(10月12日)

25.来年10月、羽田空港の滑走路が1本増えて4本になると、年間3万回の発着が増え、国際線ハブ空港を仁川やシンガポール等に負けない基幹空港とするという国交省大臣の 発言に千葉側が怒りを示した。深夜、早朝の飛行制限がある成田を羽田が補うなど、両空港を一体化して運用し「首都圏空港」とする方針を示して双方の問題は一件落着した。

ただ、新滑走路の3分の1は桟橋型のもので、我が国では初の工事で、航空機の運航に特に安全性に問題がないか、騒音問題が新たに発生しないか、管制、運用方法に問題は ないか等、私は11月に見学の機会があるので、現管制官の意見も聴いて再考してみたい。(10月15日)


26.今回のニッポン号はモロッコからイラクヘの飛行です。
1939年10月8日モロッコのカサブランカを出発し欧州に向った。
既に戦争が始まっていたので、ロンドン、ベルリンは中止し、スペインの上空に入り、セリビアに到着した。僅かの睡眠でロ ーマに向かう。追い風により260キロの倍の速度で飛行したのではないか。(筆者注:時速500キロであればYS ll並)。

中尾機長は「全コースの1/3を残しているが日本はもうすぐだという気分になった」と。ローマでも歓待され、皇室や政府から激励電報が届いた。
12日、地中海を東に飛び、ロードス島(現ギリシャ)に向かう。バラの花とオリーブで有名な島だが、戦争中はイタリアの重要な飛行拠点であった。
13日には仏領だったシリア上空を飛び、英国が占拠するバスラ(現イラク)へ。出迎えなし。一行の願いはゆっくり温泉で一ヵ月位過ごしたいというものであった。(10月15日)

 

27.1939年10月14日、ニッポン号はイラクのバスラを出発しカラチ(現パキスタン)に2泊、16日朝離陸したが、黒い杉の大木のようなものが翼端をかすめるのを大原使節は窓 から見て驚いた。中尾機長は「しまった、ダメだ」「助かった。ありがたい」と同時に危機一発をよろこんだ。そしてコルタカヘ向かった。
17日はタイのバンコクヘ。日本の夢を見たいと19日台Jヒヘ。温泉に入りぐっすり眠った20日6時50分台北発東京へ。途中桜島、機長の郷里山 川から目を離さない。紀伊半島で民謡「串本節」を頭
に浮かべ、「日本の自然は瀬戸内海の魚に似て小味な奥ゆかしさがある。自ら完成した天の技巧である。」

間もなく富士山を左に見て、佐藤通信士は忙しく眼下の風景を羽田に送る。そして13時47分群衆が見守る中東京着。

機長、使節など皆涙した。70年前の今日、ニッポン号は56日間かけて5万2860キロの世界一周をなしとげたのである。(10月20日)

(筆者注)この大毎のニッポン号の記録は、毎週一回7−8回にわたり連載されたものだが、同社の論説委員玉木氏は「冒険のみずみずしさ」と題して次のように述べている。

 「機長中尾氏が丁度ライト兄弟の初飛行(1903年)に生まれたのは象徴的である。彼は体系的な操縦教育を受けた第1世代の人物である。次々に開発される試 作機のテスト飛行を繰り返してきた人である。だが時代は日中戦争をはじめ、世界戦争の中で、新聞社の航空機も徴用され、遂に敗戦。日本は翼を失ったが時代は移る。再び国産旅客機開発に力 を注ぎ、宇宙開発にも参画している。70年前、当時の技術で最後の「空の大冒険」をなし遂げたチャレンジ精神が、みずみずしいヒントや励ましを今に発信してくるのではな いか」と結んでいる。(10月20日)


28.10月22日をもって成田のB滑走路が2500mの長さで運用を開始した。今まで地元との話し合いがつかず2180mで使用しているものを320m延伸したのである。これによって 年間2万回の発着増となる。この3月に米フェデラル.エクスプレス社の機が各座しA滑走路が長時間使用不能となったことから、来年3月オープンを5カ月繰り上げたもの である。また、成田新高速鉄道も来年7月開業予定で空港アクセスも良くなる。(10月22日)

29.国交省の「羽田を日本のハブ空港にするJという発言から、いろいろな問題が出たが私見を述べさせてもらう。

まず、成田のBラン延長で発着回数は1割増えて22万回となる。同じく羽田のDランが出来れば44万7千回となる。これらは机上の計算であって、需要予測は時の経済状況如 何によるところが多く、最も困難な作業である。マイナス要因として、羽田のDランについては新たな騒音問題が、特に千葉県あたりに起こらないか?DランはBランに平行 しているが、今のBランでも騒音の他に、川崎市上空を飛行しない制度があり、これは原子力企業があるので、万一を考えてBラン使用は北向き出発、着陸は北からのみとい う制約がある。

乗降客の増減は時の経済状況により、経済の好不況の変動は、20年周期又は40年周期と学説はさまざまである。良い例が名古屋国際空港で、なるほど中部工業地帯のおかげ で、開港翌年までは順調であったが、昨年から今年にかけては予想を裏切った。
更に、最も重要な安全問題である。我が国はじめてのDランに桟橋式構造をとり入れたが、フロート式も安全上まだ全く出現してない状況であるから、充分チェックのうえ、 運用を開始してもらいたい。(10月30日)

30.今度こそ甘えは許されない。唯一の国際線を運航した日本航空は「ナショナルフラグキャリアー」(国を代表する航空会社)として、事実上公的管理下で再建を目指さねば ならない。

今までの再生案は3大銀行を中心とした3千億円の債券放棄と株式化を内容としたが、政府保証も加わるにあたり、財務相は「良識ある世論が納得できる案が出来て、初めて 政府支援ができる」とし、年金問題の解決が支援の前提だとクギを刺した。また多くの負採算路線は、地方の求めに応じて空港を乱立させ、空港と航空路線を巡る 政治と航空行政と地方の3者が追い詰めたことも事実である。

そこで年金問題だが、生活に直接影響が出るOBが引下げに応ずる公算は小さい。手続きの条件緩和など特例規定が検討されるとみられる。 日航には8つの労組がある。これらの整理、統合と現経営陣の刷新も避けられないと思われるが、時間を要するので、その間の安全運航に万全を期して貰いたい。(11月 1日)

31.ニッポン号が世界一周飛行を果してから今年で70年。その後敗戦により航空機の開発が禁止されて「空白の7年」の後、国産初の旅客機「YS-11」が出現したが、航空産業 者は一様に「あの空白の7年が今も尾を引いている」とそろって口にする。「YS-11」は、三菱、富士、川崎、各重工、新明和から名うての設計者が揃って期待を 背負って製作した名機であった。しかし、販売がふるわず182機で生産を終了した。

しかしながら、70年代、米国ボーイング767、777の共同開発で実績を重ね、次世代主力機の787は約35%が日本企業によるものであり、国産ジェット旅客機への素地は整っ ていた。三菱が2012年に初飛行を目指す「MRJ」(三菱リージョナルジェット)の開発に乗り出したのは、経済産業省が03年に打ち出した「環境適応型高性能小型航空機」 の研究開発に対する支援がきっかけであった。当初30〜50席を想定したが、アジア市場の需要が見込まれたので、70席、90席クラスに計画変更した。
リージョナルジェット分野では、カナダ、ブラジルさらに中国、ロシアが参入しているが、三菱は「最先端の技術による軽量化と空力設計、新エンジンの導入で2〜3割の 燃費改善を実現させる」ことで、既に全日空から25機の購入希望があり、かつ米国の民間航空会社から100機の購入が決まったそうである。

 世界一周を果たしたニッポン号からYS-11、次世代の中小型ジェット機MRJへ、日本の航空技術は進化を重ねて次世代へつながっている。(11月2日)
 

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第44号 平成21年12月1日発行

「訪米団に参加して」

理事 前田みなほ

 IACE2009ではルイジアナ州を訪問しました。これは私にとってまさに青天の霹靂で大きな驚き以外の何物でもありませんでした。訪米する事になり個人的なスケジュールの調整もありあれこれとする事が急に増えて大いに忙しくなりました。

 そのような時に幸いにも昨年に幹部団員の飯沼健太郎君がIACEに参加してルイジアナの素晴しいレポートを「はねだ」、「スカイフレンド」や「航空少年団の運営実施報告書」あるいは体験談を「さよならパーテイー」で発表していましたのでそれらの報告が私の事前の調べ物と予習の大きな手掛りと助けになりました。「はねだ第42号」、「スカイフレンド第40号」を開いてみてください。 ほとんど同じ順序で訪問しルイジアナ州では同じホストがスケジュール作りから実行をしていましたのでどんな事をしたのかが分かると思います。

 7月20日に航空振興財団羽田綜合センターで「訪問団結団式」して成田で一泊して21日に出発し8月6日まで活動をしてきました。有明佐賀団小柳拓也君、宮崎団平川愛さんと千葉団菊池愛さんの3名と一緒に米国ヘエスコートとして私が同行しました。 羽田団の水野景太君は1人でカナダを訪問しました。

 首都のワシントンDCに12カ国から12名のエスコートと62名のカデット(航空青年)が集結して3日間の観光などをしながら過ごし同じ州を訪問するグループのメンバーと親しくなってから12州へと別れて行きました。私達日本人4名はオーストラリア2名、英国2名とカナダ3名のカデットに加えて韓国のオブザーバーがエスコートとして参加した。 総勢12名の大グループでした。

 ワシントンDCでは例年のペンタゴンを見学する代わりに今回は「国務省」で3名の外交官の講演を聞いたのが印象に残りました。その中にはCAP出身者、日本のアメリカ文化センター所長を勤めた方、軍人からジャーナリストになり更に転身して外交官になった方と多様な経歴の持ち主の話は多義に渉り興味深いものでした。「国際間の相互理解には相手国民と会話をする事が最も重要な事」と聞いてやはりお互いの価値観の違いを知る事が必要と改めて確認しました。

 それとオバマ大統領になってから「国の為に働きたい国民が増えた」とも聞きました。日本人もその様になると良いのにと思いました。

 市内観光では訪米団の皆さんがお世話になったアイオワ州のステイープが大きな体と笑顔で案内をしてくれました。何時も良く歩く事は変わりなかったのですが「国務省」学の為に革靴を履かなければならなかったのが少々厄介な事でした。 ほとんどの人が入口でスニーカーから履き替えたのですがスクール・シューズで歩き徹した愛は靴擦れに悩まされてしまった。

 それと突然の雷雨では全員びしょ濡れになリスケジュールを変更せざるを得ない程の激しさであつたのは忘れられません。また拓也があの広大なアーリントン墓地で衛兵の交替を見学後に迷子になった時は猛暑の中で頭を抱えました。

 ルイジアナ州へはいよいよ私が全員を連れてジョージア州アトランタ経由で州都のパトン・ルージュ市へ入りました。旅行に慣れてはいても12名の移動は大きな責任がありやはり緊張しました。州の責任者のパットとスー夫妻とアシスタントスタントでカメラマン役のジョンが出迎えてくれ私達が州に滞在中ずっと一緒に行動をするとの事で大変安心をしました。

 パットとスーは二人とも大柄でふくよかな体格でいかにも頼りがいのある様子で何時もにこやかに接してくれました。 惜しみないホスピタリテイーで企画と実行をする姿は親しみやすい人柄もあり表現出来ない程の素晴しさでした。 この上なく12年連続でこの行事に関わっているそうで米国CAPでも大変珍しいケースで熱心で献身的であるとわかりました。 プログラムやレストランの選択は誰もが納得のいく選択であり経験の深さを実感しました。

 ポーランド出身のジョンは数年手伝いをして、日本と韓国の英語日以外の参加者にとってゆっくりと話しはっきりとした発音で聞き取りやすく会話が楽であったと感じました。そしてカデットとエスコート達へのソフトな接し方や何度も「プログラムに満足しているか?」と感想を聞き「他にどんな事がしたいか?」と希望を知ろうと努力をして肌理細やかな対応に気配りを感じました。

 プール・パーティーのためにスーの家に行きました。アライグマやオウムと犬達がいてここは拓也達の滞在先でもありました。驚いたことにクラシックな消防自動車や乗用車を2台ずつ所有していて「オモチャ」と呼んでいたことでした。私の滞在先でもコルベットとハーレー・ダビットソンが有りました。

 ルイジアナではオモチャは高価な物を言うらしいのです。

 タバスコエ場では余りにも沢山の種類の製品がありとにかく全てが辛い物づくしでスパイシーな食事が好きなルイジアナの人達の嗜好が良く判りました。コンリカ精米所にはジャンバラヤに代表されるケイジャン料理用の米製品が並んでいて私の家族用に数種類を購入しました。

 湿地帯の多いこの地方にはアリゲーター(ワニ)があちこちで見られて一口大のフライにして食べます。イーグレットと呼ばれる白い大型の鳥は美しく群れを成していました。

 次の訪間はレッド・リバーの流れるアレクサンドリヤ市で地区のCAPのBBQパーティーに招待されジャイロコプターのデモンストレーションがありドラえもんの様に飛び回っていました。「フライトがホビー」と聞きましたが何とゴージャスな趣味でしょう。ここではホスト・ファミリーがクジ引きで迎えるカデットとエスコートを決めたそうですが何かと無理がありました。

 二人の愛は時間の観念がない家で集合時間に間に合わずヒ・ジュンは「家が清潔でなかった」と不満があり私も単独の滞在でしたが正直なところやはり滞在中に違和感がありました。

 ルイジアナ州滞在中にセスナ機のオリエンテーション・フライトはバトン・ルージュとニュー・オリンズで2度全てのメンバーが体験できました。機材の手配には大変な努力あった事を聞きました。シュミレーターにも空軍基地で2度のチャンスがあり爆撃もできてどれもがゴージャスな経験でした。パイロットをはじめ関わってくださった全てのスタッフには感謝のみです。

 ルイジアナ州は巨大なハリケーン・カトリーナの被害から既に4年が経っていましたがまだまだその被害の傷跡がいたる所に残っていました。 刻々と迫ってくる嵐から逃げようとする人々が高速道路に押し寄せる車で大渋滞とたっている様子をTVのニュースで見たことを思い出しました。その惨状は想像をはるかに超えたものでした。 避難してそのままになっている住居、売りに出されている家、壊れたままに任せているビル、空き地になっている土地等町が機能していない様子があちこちに見られました。実際に見ましたがジョンの事務所が瓦礫となっていました。

 何回も全く突然の激しい雷雨にあいずぶ濡れで屋根の有る所に走りこんだりやむなく予定変更が繰り返されたりとルイジアナ州でも天候には多いに振り回されました。湿度の高さは壮烈でメガネをかけている私は建物を出るとレンズが曇り前が全く見えなくなり先ず拭いてから歩き出さなくてはなりませんでした。

 カデット達とヒ・ジュンは車での移動中や休憩時間には感心する位よく寝ていました。気候の厳しさから体力を消耗する日々だったようです。誰にとっても砂地の蟻と湿地の蚊は避けられないしつこい大群で私も虫刺されは痒みが長引き辛い経験でした。それに加えて日本の愛達は腹痛、頭痛、韓国のヒ・ジュンは暑さ負け、カナダのジョシーは食物を喉に詰まらせたりと次々に女性達は体調不良とハプニングに悩まされました。このプログラムに参加するのには本当に強靭な体力を必要とされます。特にエスコートは何時も誰とでも親しく快活に活動に積極的に参加することを求められていますから尚―層全行程を元気一杯過すのが必死条件です。

 第3の訪問地はテキサスとアーカンソーの州堺にあるシュレブポート市でした。バークスデイル空軍基地を中心に活動しました。広大な敷地の中に様々なフライト・シュミレーター等の訓練施設や家族用の学校と幼稚園等があり戦闘機の博物館、兵士の宿泊所の見学や売店とプールの利用も出来ました。 ゲートの入場や施設入り口によつては厳しいセキュリティー・チェックもありました。特に基地のナンバー2である司令官との昼食会は緊張を伴うプログラムでした。

 郊外の公園でピクニックをした時に食べた軍隊の携帯食も印象に残りました。一袋の中にメイン・デイッシュ、主食、ディザート、飲み物、スナックがセットされていてメニューも様々で好きなものを選べました。私はジャンバラヤを選択しました。化学物質の入った袋を開けて水を入れると熱くなるのでそこへ暖めたい食品の袋を入れて指示通りの時間を待つと作った時の味わいが出るのです。「美味しい」と言うのが感想です。タバスコやマッチが入っているのも驚きでした。

 ここでは男子はホーム・スティで女子はホテル滞在でカデットとエスコートが一緒に同じ部屋で過ごしました。 6人の誰もが不便に悩む2泊でした。

 数時間のドライブで北から南へと300kmの移動で最終訪問地のニュー・オリンズにまで行きしました。

 途中、バトン・ルージュの郊外に寄り雷雨で乗船後にキャンセルとなった「ワニ見学」のリベンジをしました。 しかしまた雷雨で今度は方角変更までしてワニの大ジャンプをみました。餌の鶏肉を目がけて飛び上がる大鰐の迫力と水しぶき・・・。

 ニュー・オリンズでは2つの家庭がカデット達の滞在を待っていました。 大人達はホテルに宿泊でした。市内観光ではミシシッピー川のウォーター・フロントの景色散策や大型観光船に乗船、ラテン・クォーターで古きフランスの名残を馬車に乗ってあじわいました。夜のバーボン・ストリートではジャズ・ライブを楽しみ、怪しげな雰囲気の夜の街で土産屋のはしごもしました。

 ニュー・オリンズ到着時にルイジアナ州鳥のペリカン模様のついた白いT−シャツを配られて町に出る時に着る事を義務づけられていました。 なるほど危険な匂いもする繁華街を歩くにはグループ・メンバーが一目瞭然で「迷子にはならない」と納得できました。 大小15羽のペリカンがゾロゾロ歩くのは面白い光景でしょう。

 ルイジアナ州では 私の参加を「日本から始めてエスコートが来た」と大変歓迎され また私が「ケン」を知っていると言う事で共通の話題となり 訪問した所々でおおいに盛り上がりました。 飯沼健太郎君は お世話になった方々にとってとても印象に残つた日本のカデットのようでした。「お父さんが4月から団の役員となり大きな力になりました」と伝えると 一同が「それは何より」と感動していました。

 10日間は、あっという間に過ぎ去リ、レストランでのデイナーがお別れ会となりました。全員が盛装をして 謝意と記念品を贈り、お土産を頂き 涙、涙で別れを惜しみました。スーは「毎年繰り返す一番嫌な日」と目を真っ赤にしていました。そして翌朝にルイ・アームストロング・ニュー・オリンズ国際空港を飛び立ちました。

 ワシントンDCでは、12州から戻ったカデットとエスコート達が再会を喜び 互いに体験談に花を咲かせ興奮した雰囲気に満ちていました。それも束の間 州の活動報告の為にカデットは準備にせわしくしていました。次の日は自由時間で、日本の4名とヒ・ジュンとで行動を共にしました。スミソニアン航空宇宙博物館とナショナル・ギャラリーを見学しホテル近くのペンタゴン・シテイーのモールでショッピングしました。ヒ・ジュン以外は見学には興味を示さなかつたのは残念でした。

 8月5日は帰国日。日本人が朝一番の出発でした。12時間余りのフライトで6日午後に成田へ戻りました。田林氏と飯田氏が出迎えてくだいました。「ケン」こと飯沼君もわざわざ来ていました。「出発の際に結団式に出席できなかったから」という事でしたが、この様な行動をする団員は始めてであったので気持ちが嬉しく感激でした。水野君は既に帰国していて一緒に写真撮影と帰国の挨拶を済ませ、解散となりました。小さな事件は有ったものの大事に至るような出来事が無しに全てのプログラムが終了し、心から安堵の胸を撫で下ろしました。

 ワシントンDCで到着時にはスタッフの皆様に大歓迎をされ 帰国に際しては賛辞の言葉で送り出されたのは、私に取りまして何よりの喜びでありました。この様な素晴らし経験をさせていただけた事に感謝いたします。このプログラムに関係されお骨折りをいただいた全ての方々に心より御礼申し上げします。

 

 

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第43号 平成21年6月1日発行

「地球の温暖化ってなに?」


団長 新井典郎


 皆さんは学校やテレビ、新聞などを通じて毎日の様に炭酸ガスの排出を減らそうという運動が取り上げられていることをよく知っていることと思います。でもその内容はよくわからないのではありませんか?

 

 私も地球の誕生以来46億年という気の遠くなる様な時間の中で人類の歴史はわずか(?)260万年、地球の歴史を1日に例えてみれば、24時間の1日が間もなく終わろうとする夜の11時53分頃以降の生活しかしていないのだから炭酸ガスが今の何倍もあった時代もあったに違いない、そしてその中で命を保ってきたのだからいまさら何を問題にするのだと思っていました。
 

 そして現在の大気中の炭酸ガスはわずか0.03%、地球が生まれた頃の原始大気には91%もあったといわれ、それが長い間に石灰岩になったり、海水や植物に吸収され、現在私たちが呼吸している大気になったと考えられており、炭酸ガスのわずか1〜2%の変化は海水や植物がそのうち吸収してくれるだろうから問題にならないだろうと考えていました。

 
 ところが18世紀の産業革命以来、石炭や石油といった化石燃料の大量消費で炭酸ガスの排出量が急激に増加して人類の歴史の中ではほんの一瞬のうちにその濃度が変化してきたのです。 大気中の水蒸気、炭酸ガス、メタン、フロンといった「温室効果ガス」は地球から放射された赤外線のエネルギーを再放射して地球を暖めているので私たちが快適に生きるためには不可欠な物質なのですが、人類の長い歴史にとつて、そのバランスの変化があまりに急であるため対応ができなくなり私たちに生存がおびやかされるようになったのです。

 
 たとえば、皆さんの体温は通常36.5℃ですが、病気になつて39℃ にでもなると大変です。
ところが、東京の平均気温は最近の100年間で約3℃も上昇しているとのことです。まさに地球は悪性インフルエンザにかかり始めているのです。

  

 地球全体の平均気温はこの100年間に1℃近く上昇しているといわれていますが、今後どんな影響がでてくるのでしょうか? 気温が上昇してその熱により海水の体積が膨張すると同時に、北極や南極、その付近の氷が溶け、このままでいくと100年後には約60cmの海面上昇が予測されています。
その為、今までの陸地が水没したり、高潮、塩害、飲み水の塩水化が進みます。 また、水蒸気の存在のかたよりが生まれ、異常気象による熱波、千ばつ、集中豪雨、洪水、水不足、大規模な森林火災の発生や砂漠化が進み、農業生産が減少し食糧不足や病気、健康被害も発生、生物の生態系の大変化も予想されます。

 
 ではこうした地球環境の悪化を防ぐにはどういう対策があるのでしょうか? 国際的にも環境サミットや各種国際会議などで世界全体の炭酸ガスを含む「温室効果ガス」を減らす運動がつづけられています。

 

 日本の2006年1年間の炭酸ガス排出量は12億7360万トンでそのうちの18%が自動車の排気ガスです。 その他は火力発電、製鉄、工場、商業、家庭などからでる炭酸ガスが占めており、単純に計算すると人口1人当たり1年間に何と10トン以上の炭酸ガスを出していることになるのです。そして、その量は年々増え続けています。

 
 排出量を減らすため、輸送部門での共同輸送、陸上輸送から効率のよい海上輸送への切り替え、天然ガスの利用、燃料電池を利用するハイブリッド化や鉄鋼業における廃プラスチック、廃タイヤの燃料化、電力産業での原子力、水力、風力、太陽光、地熱、潮力による発電などあらゆる知識、技術を動員して取り組んでいます。 地球温暖化を防ぎ、私たちがいつまでも安心、安全な生活をつづけられるように出来ることはなんでしょうか。あなた自身の毎日の省エネ努力が炭酸ガスの増加をおさえます。

@ 無駄な電気、ガスを使わない電力やガスを作るため大量のエネルギーを消費して炭酸ガスを出します。 「クールビズ(暑い時には薄着)、ウオームビズ(寒い時には厚着)」や「早寝早起き」も間接的につながります。
A 物を大切に使う
物を作るためには沢山のエネルギーが使われています。使えるものは出来るだけ長く使い流行に振り回されない。出来るだけリサイクルする。
B 食べ物を残さない食べ物の材料を作るために出したエネルギーに加え、生ごみの処理にふたたびエネルギーを必要とします。
C 汚れた水や油を台所に流さない廃水、廃油の処理にも大量のエネルギーが必要です。
D 森や林を大切にし、緑を守る植物は光合成により炭酸ガスを吸収してくれます。
E 近い処は歩き、または自転車を利用するもちろん運動にもなり健康になります。

 私たち一人一人が毎日小さな省エネ運動をつづけ、いつも温室効果ガスを出さない努力をすることがより快適な地球環境を守る事につながるのです。
 そしてあと20億年はあるといわれる地球の命を守ろうではありませんか!

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第43号 平成21年6月1日発行

「民間航空界の動き」


顧間 久保 俊郎

 

1.いささか旧聞にぞくするが、建築学を専門とする東大教授が、オリンピックが終わった11月に北京を訪れ、空港ビルを見学した。
空港ビルがT1、T2、T3と3個もあり、各々が100メートルの縦長ビルで、各ビルの間隔が一駅分あるというから、羽田や成田のビルを更に大きくしたようなものらしい。
オリンピック終了後は、見学者用として開放し、一か所200円の入場料をとるらしい。それでも一日10万人位の観客があるらしい。ただ最も感心したのは、日本では騒音その他で空港一つ造るのに民意が応ぜず、海上とか市街地から離れた場所しか選定できないが、都市計画が自由に出来るところだ。市民の権利が強くなる前の、理想的な都市インフラを整備できる最後のチャンスであったことで、ナポレオンが古いパリの街並みを焼き払って、ゼロから都市計画を力づくで進めた事例とダブッて見えた由。中国はオリンピックを契機としてそのチャンスを最大限にいかしたのだろう。 (12月1日)
2.羽田空港国際化は以前から東京、千葉、神奈川の間で分科会を開いて討議している。
2010年に羽田に第4滑走路"D"が出来、現在の韓国、上海、香港線を深夜、早朝に3万回の国際線割当を計っている。10年10月以降はマレーシア、シンガポールのほか、英仏への直行便もできる。深夜便に対する旅客輸送は、鉄道に代わるバス運行が羽田−品川−横浜間に続けられる。さて今後の問題は、昼間の国際線問題をどこまで拡げるかであり、国は「国内線の需要問題で変わりえる」と説明している。また成田空港と都心及び羽田を結ぶ鉄道輸送の高速化も動きだしているそうだ。
羽田の国際線と国内線の配分は、日本の交通体系全体を見直す中で考える必要があると思われる。(12月2日)
3.医師が乗り込んで救急現場に直行するヘリコプターをドクターヘリという。救急車に医師が乗り込み、患者搬送途中でも治療ができるので、平均14分で救急要請から治療開始まで、救急車の場合の半分の時間で済むという。ただし、運航費が年間1億7000万円かかるのと、片道70キロまでとされ、まだ全国に15機のみの運航という。(12月6日)
4.2005年の愛知万博と期を同じくして、中部国際空港が世界のトヨタなど大企業の支援もあって、近時最もめぐまれた空港として発足した。
ところが、原油の高騰に続く米国経済の減速と金融バブルの崩壊、急激な円高、ドル安加えて中国、インドなどの激しい経済グローバル競争などで、空港の乗降客、特に国際線は、流石に名古屋といえども今年は前年比7割と落ち込んだ。日本の多くの産業は輸出依存型で、円高は景気を後退させる要因となる。過去にもオイルショックや円高ショックでもバブル崩壊の危機を乗り切ってきた日本だが、その根底には技術力に裏付けされたモノ作りの「精神」があったのだ。航空機も絶大な技術力で、三菱重工、川崎重工、富士重工が伊勢湾沿いに工場を持ち、MRJ(三菱)が座席100以下の小型機で、国産ではYS-11以来35年ぶりに新型機による輸送をはじめ、航空界の刷新を図らんとしているのである。 (12月10日)
5.飛行機から出る二酸化炭素(CO2)の規制は、いままで国内線についてのみ検討されてきた。こんどは国際線についても国際民間航空機関(ICAO)が来年中に対策をまとめる機運が出て、経済成長著しい中国やインドなどに乗り入れる便の増加などで伸びつづけ2005年は1995年の1.5倍の数値(6億トン)のCO2が示された。
国交省も来年1月、東京で開催される「交通分野の地球環境エネルギーに関する大臣会合」でICAOの考えを後押しする構えであるという。私共が知ったのは、着陸の際のスピードを落とす逆噴射1回に使用する燃料は約60リットル以上になり、排出するCO2は140キロで、車と比較すると500キロ走ったものに相当するという。
「滑走路が長くて乾いていれば、アイドル状態で安全に止められる」という。ただ、最も効果があるのは機種の変更で、B747からB777にすれば、排出量は2/3ほどに減るという。日本の各社が来年導入する787はさらに削減される由。また、コンテナや食器類の軽量化なども燃費を下げ、国内、国際線の旅客便で同じ距離を飛んだときの一座席当たりのCO2排出量を、07年度に90年度より13%減、当初日標の10%をクリアーしたというから、我々の知らぬところで、いろいろな努力がなされていることがわかる。(12月10日)
6.羽田から関西、九州、ソウルなど西方に飛ぶ旅客機が、横田の空域南部の一部を飛ぶこ
とが出来れば、時間の短縮と燃料の節約に大いに役立つという石原知事の発言で、米軍
と話し合いの結果、この9月末から実施可能になった。
旅客機の運航には大変好ましいことだが、大田区、世田谷区の一部住民から、騒音苦情
が出た。羽田はこの20年ばかりの間に、東へ、東へと移動し、かって品川区勝島あたり
の住民の苦情がようやく無くなった今、再びの騒音問題である。大田区の要望書では
「空域と空港が共生できる」街を目指しているので、早く解決することがのぞまれると。
(12月15日)
7.中部国際空港が寂しい年の瀬を迎えている。
日本経済の象徴である自動車産業までが悲鳴を上げる世界同時不況のあおりで、自動車牛産工場の地器である東海地方で働く日系ブラジル人派遣社員の多くは解雇され、やむなくドバイ経由で故国へ帰って行くという。米国経由が便利だが、米国ではビサが必要になったため、やむなく中東廻りとなった。(12月29日)
8.新年早々「羽田空港国際化へ飛躍の年」と案の定、羽田空港問題が新聞に大きくとりあ げられた。問題は'D"ランウェイが出来れば年間の発着枠が今より10万回以上増える。
中でも国際線は現在の9000回から6万回へと6〜7倍に拡大する・・・といったもので羽田 は既に国際化する空港だとする意見が多い。
羽田は現在、国内線のみで年間6500万人を運んでおり、これは我が国総人口の半分を占める数である。成田の滑走路の増設が不可能で、早朝夜間の飛行が住民の反対で出来な いものであるなら、それをある程度埋めるというのが理解できる意見である。
成長著しい中国、韓国などアジア諸国の空港と伍して行くためというが、今は大きな空港を造るというより、成田と 羽田が「すみ分け」ではなく「補完」すべき時代(東京都副知事)というのが妥当だろう。そのためには両空港を結 ぶアクセスを真剣にとりあげるべきで、神奈川、千葉県民の利便等のためのみの議論をすべきときではない。 (1月4 日)
9.国内定期便のうち乗降客は羽田便が突出して多い。即ち
1)羽田〜千歳(札幌)972万人6)羽田〜鹿児島 225万人
2)羽田〜福岡 8147)羽田〜熊本 188
3)羽田〜大阪(伊丹)5838)羽田〜小松(金沢)185
4)羽田〜那覇 5379)羽田〜関西 170
5)羽田〜広島 23210)羽田〜長崎 149

以上は2007年度の実績であり、羽田利用者は4204万人で、総利用者6500万人の65%を占める。
地方空港が如何に羽田路線を多客便として狙っているかが判明する。羽田が拡張を必要とされる理由である。ただし、500km以上の距離がないと、航空便は他の機関(鉄道など)にとって替えられる。(1月11日)

10.1月15日、15時30分 アメリカのUSエアウェイズのA320型機が客150名を乗せて、ニューヨーク ラガーデア空港を出発直後、バードストライクによって両エンジンを破損900mの高度からマンハッタンの西を流れるハドソン川に不時着した。幸い全員無事、先ず機長の判断が良かったこと、着水直後、沿岸警備隊や多数の船舶が救助に参加したことが幸運であった。救助に要した時間は約1時間であった。
ニューヨーク州知事は「ハドソン川の奇跡」と賞賛した。鳥衝突による航空機事故は乗客が死亡したものだけでも近時世界で数件あるが、我が国特に羽田では航空保安協会の職員10数名で、銃をもって昼夜を問わず、有害鳥の駆除にあたっているが、羽田(標高2メートル)ほど鳥のエサにめぐまれ、また”渡り鳥”に都合のよい休憩所はない。防除の最良の手段は空港からエサをなくすこと以外にないと言ってよい。またそれ以外に方法はない。(1月16日)
11.日航、全日空ともに景気低迷に伴う出張、観光客の減少により、関西、中部国際空港を中心に計30路線で休止、減便を決定した。
昨春は原油価格の高騰によるものであったが、今回は景気の不振によるものであり、関西が特に観光の不振が目立つ。順次小型機が使用され、客室乗務員も減少され、景気が上昇しない限りさらに減便となる可能性もある。
12. 路線減少が続く関西国際空港を支援するため、国土交通省 は海外航空会社に対し、関空発着便に限って国内路線の運 航を、日本の航空会社との共同運航(コードシェア)を義 務付けて認める方針を固めた。

海外の航空会社にはこのことについて前向きな姿勢を示す会社もあるという。
関空に降り立つ外国人旅行客には、北海道を目的にした人も多い。今回の場合、国内線部分のチケットは、海外航空会社から座席を仕入れた国内航空会社が販売する。

関空の国内線は日航と全日空で、96年10月に84便あったものが、この4月には45便に減る。関空会社の村山社長は「これでは国際拠点空港としての役割を果たせない。アジアの元気な会社に国内線をお願いしたい」と話している。(2月2日)

13.
航空大手の収益が急降下している。日本航空と全日空は2月6日までに9年3月期の業績予想を大幅に下方修正し、純損失に転ずる見通じとなった。旅客も貨物も需要が激減し、日航は純損失が34億円になり公的融資の申請検討を示唆した。よって人員削減と路線の運休等を考えたが、こういった大幅な均衡縮小には踏み切り難い。最大の稼ぎどころである成田、羽田の両
空港では、10年に再拡張が完成し、当面は苦しくても発着枠を確保しておいた方が、中長期的に有利という考え方があり、難しい判断を問われている。(2月7日)
14.現地時間で2月12日午後10時過ぎ、アメリカニューヨーク州、ニューアーク空港に着陸前、コンチネンタル航空所属のボンバルデアDHC8Q400型(プロペラ双発機)が、爆発墜落し、乗員乗客49名、地上の住民1名計50名が死亡した。
同機は着陸のため、高度700メートルまで降下したところで主翼の着氷を知ったが、解氷装置が作動せず、フラップが全く効かなかったという。
同機種は近距離用小型機(70〜80名搭乗)で、我が国でも25機がローカル線に使用され1昨年3月高知空港で前輪が出ず、胴体着陸した。国土交通省では同機が特にトラブルが多いわけではないと結論づけているが、他山の石である。(2月15日)
15.「ハドソン川の奇跡」と呼ばれたベテラン機長が米議会で気になる証言をした。会社の経営難に経済意識が加わり、空の安全をまもるベテラン機長が次々に去り、リストラに脅かされているという。日々を無事故でつなぎ、英雄など生まれないことこそ誇るべき栄誉なのに、奇跡のあと、米国(NVIA)やオランダ(トルコ航空)で着陸事故が相次いで起こつている。合理化のあまり、必要な筋肉まで削いでいなかったかどうかが、気になるところである。(2月20日)
16.
22年秋には、羽田は”D”ランウェイの完成やら、国際線を含む増便などで、様変わりするが、管制塔も116メートル高のものが新設され、死角なしの空港管制が出来るという。
となるようだが、国際線が”D”ランウェイをスポットを使用するのにかなり長距離のタクシングをするようになり、効率は良くないと心配される。管制官も気配 が、こんな心配をしなくて済むことを切に願っている。(2月27日)
17.

北朝鮮は4月4日から8日の間に、人工衛星「光明星2号」を運ぶロケット「銀河2号|を日本海に向けて発射し、1段目は日本海に、2段目は日本を超えて太平洋に落下既にICAO(国際民間航空条約)及びIMO(国際海洋機関)に安全に必要な資料を提出したというが、前のテポドンは通告なしに2回にわたり発射している。

今回も1段目は日露路線線に、2段目の落下地点について日米路線に計16便に影響があるので、迂回経路を検討中であるという。(3月13日)

18. 丸紅ロッキード事件から30年余、 2月から日本の空を飛び始めたブラジル製小型ジェット機が紹介された。 2月1日ブラジル・エンプラエル製小型機「E170]が名古屋空港から飛び立った。社長まで逮捕された丸紅にとっては「新しい歴史の一ページ」である同社の遠矢部長は「ロッキードは私の入社前の事件だが、丸紅にとっては十字架だったこんどの販売でやっと次のステップに進むことができる」と喜んでいる。
(注)ロッキード事件とは1976年、明るみに出た戦後最大の疑獄事件で、田中首相、丸紅、全日空の幹部16名が受託収賄、贈賄などで起訴され、丸紅の檜山社長等は、首相に5億円の資金提供をして有罪になった。(3月23日)
19. 「人工衛星の打ち上げ」を予告している北朝鮮は、 4月4日〜 8日1100〜1600(日本時間)に同国が管理している空域の二つの航空路の一部を閉鎖するとの航空情報(ノータム)を発出した。該地区は北朝鮮の東側沿岸上空と、沿岸から東の海上に向かう各航空路の一部で、日本を発着する航空機は利用しておらず、日本への影響はないという。(3月24日)
20. 3月23日午前6時30分頃、成田空港のA滑走路で、中国宏州発の定期貨物便フェデックス80便MD11型が着陸に失敗し、炎上した。米国籍の機長と副操縦士の2名が死亡。当時空港周辺は瞬間風速20メートルの風が吹き、風向風速が急激に変わる「ウインドシア」によるものとされる。
(注)ウインドシア(Wind shear)乱気流の一種で、風向風速に急激な差が起きる状態を指す。シアとは「ずれ」といった意味。
テレビで見る限り、着陸に際しての機体のバウンドが異常で、運輸安全委員会では23日FDX機が滑走路にいったん接地した後に、操縦桿の操作のタイミングがずれて、機体が上下動を繰り返して制御困難になる「ポーポイズ」と呼ばれる現象に陥った可能性がある、との見方を示した。ポーポイズはイルカのように進むという意味。機体の弾みが拡大し、地上から浮かんで
は落ちるさまが、イルカが海面をはねる姿と似ているため
こう呼ばれる。

事故によリー本しかない国際線用滑走路が閉鎖され、当日は約140便が発着を見合せ、
A滑走路の閉鎖は数日続くと言われたが、日本の主たる国際空港のあり方がこれでよい
のか不安を持ったことである。(3月25日)

21. 前記3月31日付き17項で述べた北朝鮮が通告した人工衛星の打ち上げは、 4月5日に発射された。日本政府はこれをミサイルと認定し、4月13日に期限が切れる北朝鮮船籍の入港全面禁止を1年延長するほか、同国に対する資金の流れを監視強化する決定をした。
このほか、国連安保理事会に対し、中止に関する強いメッセージを発するよう、申し入れているが、これは中国、ロシアの消極姿勢で、日本の意向は影のうすいものとなりつつある。
私は、安保理に申し込んだ時点で、日本の意見は通らないと案じていた。前大戦の勝利国(米、英、仏、露、中)の一国でも反対があれば、安保理の決定は不能となるのは過去にもその例があったからである。歴代の安保理々事長は、苦労を重ねているが、充分予測される事柄故である。(4月10日)
22. 北朝鮮のミサイル発射問題で、国連安全保障理事会は、13日午後(日本時間14日未明
公式会合を開き、発射を非難する議長声明を採択し、再発射の自制を求めた。
これに対し北朝鮮は14日、外務省声明を出して核問題をめぐる6者協議には「絶対に参
加しない」と脱退を表明した。
思い出せば第1次大戦後の国際連盟を日本が脱退し、昭和12年から支那事変、第2次大
戦へと進んだが、このような事態が発生しないことを祈って止まない。
(4月14日)
23.
飛行機は離着陸時に何故事故が多いか。この3日に成田で米貨物機が着陸失敗で乗員 2名が亡くなった。1月は米ニューヨークで離陸直後エンジンに野鳥が入って壊れ、ハドソン川に着水した。離陸後3分と着陸前の8分は「魔の11分」といって、地表付近の 気象。特に風が変わり易いし、野鳥も多い。操縦士の作業も多く、管制官との連絡も活発ゆえ、ヒューマンエラーも起き易い。 飛行中は速度、高度は十分で、エンジンが一発不調になっても降下の勢いを利用して、グライダーのように安全 に降りることができるが、離着陸時にはその余裕がない風のほかにもアイシング(着氷)が翼の自由、変化を阻
害して事故を起こす。 (4月15日)
24. 神奈川、千葉の両県知事は、羽田、成田間をリニアモーターカーで結ぶ構想を発表した。用地買収を必要としない大深度地下を走り、約80キロの距離を時速300キロで走るという。両空港を一体的に運用し、首都圏空港の機能を強化するというが、建設費1兆3000億円と建設期間について未だ不明の点がある。よって新藤千葉大教授は「行政の長は事業主体や費用負担を明確にしてから提案すべき事柄である」といっている。(4月21日)
25. 今年をもって横浜港が米国ペリー氏の来航によって開港し、150周年を迎えた。当時横浜は一地方の寒村であったが、米国の要望する東京に近いということ、かつ海底が深いので、大型船も使用できることでようやく妥協し、200余年にわたる幕府の鎖国政策(通商、交通を禁止すること)が解除され、今日の盛況をみることとなった。
また横浜(神奈川県)は東京に近いこともあって、羽田の国際化に熱心で、海空ともに国際都市への発展を目指している。(4月25日)
26. .2001年に開港した韓国仁川空港(ソウルの西約50キロ)は昨年3本目の滑走路の完成で、旅客4400万人、貨物450万トンと大幅に延び、国際空港評議会で「世界最優秀空港賞」に選ばれた。また10年後に4本目の滑走路が出来て整備されれば、成田の5倍ほどの面積となり、年間旅客1億人、貨物量700万トンとなる。出入国手続きのスピードアップとハイテク化により「北東アジアの物流ハブ港」を目指している。着陸料が成田の1/4の25万円、貨物も旅客も仁川経由(乗換え)が「安くて便利」という評判である。(5月1日)
27. .機内でインフル感染が疑われる乗客が出たらどうするか。先ず出来るだけ後部の座席に移し、前後2席を空席にする。 トイレも他の乗客と別にし、検診まで専属の客室乗務員をあて、他の乗客に一切接触させない。たの乗客にはマスクを配付し、手洗い、うがいの徹底を促す。疑いのある乗客には検疫の質問項目に沿って体調をチェックし、渡航先や期間を尋ね、この情報を機長は無線で地上の担当者に連絡し、検査をスムースにさせるという。これには他の乗客の協力も必要だが、乗務員の努力は並々ならぬものがある。(5月 3日)
28.
新着陸方式が、騒音と排出ガスの減少に役立つという。
従来は最終進入にあたり、降下と水平飛行を繰り返しな
がら段階的に高度を下げていたが、新方式は上空で推力
を最小限に絞り、グライダーのようになだらかに降下す
る。(左図参照)
これによってCO2(二酸化炭素)の排出削減3%と、空港
付近の騒音の軽減に役立つという。当面は関西空港で試
行する。(5月 6日)

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第43号 平成21年6月1日発行

 

「官立 航空局 航空機乗員養成所の思い出の記(その1)」


理事 渋谷保男

 

1.はじめに
 もう70年近くも前のことになる。当時、世の中は中国と満州国を巡る争い7〜 8年も続く戦争の中にあつた。世相は軍事国家体制となり、一般の国民は衣料(着るもの)や食料も制限され、配給制や衣料切符制になっていた。
 

 国家総動員法が出来て、国民の生活は次第に苦しくなってゆく時代であつた。
 今の北朝鮮に似ているような大日本帝国であった。その中で、好景気の状態にあったのが、軍需産業で兵器、車両(戦車、トラック自動車など)航空機などの生産会社で 日本政府(当時は大日本帝国政府)の軍事費予算も年を追うごとに次第に大きくなっていった。東京の街中で軍人の姿が多くなってきたり、警官のサーベルを腰に下げているすがたも増えてきた。電信柱や町内 隣組の掲示板に「スパイに気をつけろ 防諜」といつたポスターが貼られていた。昭和14年ごろからの話である。もう、むかし、むかし今では考えられない想像もつかない20世紀はじめのころの日本であった。
 

 昭和15年の夏ごろから小学校の生徒昇降口(入り口)の下駄箱(上履きの運動靴と通学用の下履きを入れておく所)の上の板壁に「官立の航空中学校が新設された。民間飛行士を官費で養成する航空学校が開設される。
 

 そして、茶色の皮製の飛行帽におおきな飛行眼鏡を額にあげている2〜 3人若い男の子の横顔と青空を3機編隊で飛んでいる銀色の飛行機の遠景が見える大きな絵のポスターが4隅を画鋲で留めてあり、そよかぜにはためいていた。学校の広い校庭にはガラスケースのついた公的掲示板があり、小学校高等科生を対象としたように「陸軍少年飛行兵 生徒募集」(海軍飛行予科(乙)練習生募集)の文字と軍帽をつけて正面を向いている陸軍兵士とセーラー服につばの無い水兵帽に大日本帝国海軍と金文字がついている帽子を目深くかぶった若い水兵さんを描いたポスターが並べて貼ってあった。しかし、民間飛行士募集のポスターでは図柄の下側に白抜きの字で「逓信省 航空局 航空機乗員養成所生徒、操縦生 募集」募集要項は全国の郵便局で交付中、どこの郵便局でも受け取れます と小さく書いてあつた。この航空学校の設立者は陸軍でも海軍でもなくて、逓信省航空局なのだ。軍人ではないのだ。民間飛行士なのだ。そう、郵便局の主管官庁は逓信省であった。(のちに、運輸通信省、郵政省、運輸省、と官庁の改変があった。)早速、募集要項をとりよせて見る。


 1:生徒、操縦生の生活、学業訓練についての費用はすべて 官において支弁する。
 2:生徒、操縦生は生徒舎において、起居を共にする。
 3:月ごとに若干の手当てを支給する。

 

 この乗員養成所に入るのには、年齢12以上13歳未満、と14歳以上16歳未満の二つの本科生コースと操縦生養成課程、専門コースがあり、本科生は5年間、3年間の二コース、操縦生は1年間であって、卒業後は一定期間、官の指定する業務につく。(兵役はこの義務に含まれる。言い換えれば契約の奴隷期間でもある。現在の憲法ではこのようなことはなくなつている。)この本科生と別の航空機乗員養成所操縦生は応募年齢17歳から19歳まで、期間は1年間、毎春と秋の年2回の募集、本科生が4年生になって、操縦訓練を始めるまでの暫定的な措置である。(しかし、太平洋戦争の終わり近くなって、本科生が操縦訓練を始めてもこの制度はのこっていた。陸軍航空本部では、委託操縦生と方向変換させ、操縦15期生を特別幹部候補生にして陸軍の管理下においた。)

  

 航空機乗員養成所には、また二種類あって、5年間の本科生を終わると、大型機を専攻する乗員養成所があり、当時は 中央航空機乗員養成所とよばれ、千葉県松戸にあった。(昭和19年には松戸高等航空機乗員養成所、古河高等航空機乗員養成所および福山高等航空機乗員養成所の3箇所になった。中央乗員養成所は高等航空機乗員養成所と名前が変わった。)
 
 昭和19年の秋以後、アメリカ軍(敵軍)のB-29、4発の超重爆撃機が日本本土爆撃に来るようになると、松戸は帝都防衛戦隊の戦闘機専用飛行場(基地)として、陸軍の使用するところとなった。
 ところで、地方乗員養成所の操縦生の原点は、昭和13年に仙台と米子の2箇所(ほかに民間委託の阪神飛行学校、天虎飛行学校など)の操縦生が第1期生とされているが、それ以前にも、小人数の人が官費養成でパイロットになっている。陸軍委託(民間)操縦生1919年(大正8年)に所沢陸軍航空学校に第1期生が入校している(朝日新聞社航空部の河内一彦氏は第1期生、東京−ロンドン間100時間以内飛行、1937年の朝日新聞社航空部の神風号のパイロット飯沼正明氏は第11期生である。)

 

2.受験
 神風号の快挙に、飛行士になりたいな。と思うようになった。兄貴たちもそんな思いだったのだろう、空で爆音が聞こえると、サルムソンだ、とか92式などと叫んでいた。

 昭和16年の12月3日に航空局から受験票のはがきが来た。受験番号と身体検査を牛込区若松町の第1陸軍病院で12月13日に行う。学科試験については身体検査合格者に時と所を指示する。上履きと弁当を持参せよ、とのこと、米英に対する開戦の5日前であった。

 朝8時に戸山が原高台の陸軍病院に着く。型どおりの身体検査がはじまる。受験要項に身体検査の合格基準が10項目ほど述べられていたので、血圧や視野検査はこんなものかと思ったが、日隠ししての直線歩行はドキドキした。最後に四つんばいになつて、肛門検査には驚いた。

 
 午後2時ごろ100人ほど最初にいたのが少なくなって、控え室にのこっていた10人ほどの人たちに、身体検査に合格した。諮問をおこなう、とのこと。 家庭や兄弟、学校の学習内容など平静に答えられた。

 12月22日 筆記試験はお茶の水の明治大学の広い教室で、長い机の端にたて1列に腰掛けて、数学、理科、国語。1科目が1時間半ほどだったろうか、寒い日で雨が降っていた。年があけて、昭和17年元日の新聞の第1面に大きな写真があり「帝国海軍航空部隊、ハワイの米海軍太平洋艦隊を撃滅、戦艦4隻轟沈、3隻 撃沈、オアフ島軍事施設は壊滅した。」真珠湾に停留中のアメリカ海軍艦艇に魚雷が命中している写真が3葉、 海軍報道部許可済と右下に横書きで小さく読めた。

  

 昭和17年2月、日本軍がシンガポールを総攻撃した日、2月7日、家の門に取り付けてある郵便受に航空局からの封書が届いていた。合格通知だ。あとで兄貴から倍率25倍だとのことだ と聞かされいまなら、宝くじなみだ。

 合格通知とは書いてなくて、採用通知とあった(一応、役人の卵なのか)古河地方航空機乗員養成所生徒に採用する。簡単なものだ。受領票を直ちに返送されたい。と書いてあった。その後10日ほどして分厚い封筒が届いた。戸籍謄本、とか学業成績証明書とか古河地方航空機乗員養成所に書留で送れとのこと、一番上の薄い紙に、赤字で横書きに 大日本帝国政府とあり 度肝を抜かれた。お役人仕事の始まりだ。

 

(次号につづく)


参考文献など

1.

航空機乗員養成所 本科第二期生会 会報 第1〜 第100号 発行責任者 飯畑正男

とくに第100号 06〜 11 ページ 特別寄稿、航空雑記(24)航空機乗員養成所が開設されるまで。関係年表

2.赤とんぼ 旧逓信省航空機乗員養成所 本科二期生 記念 写真集 amazono.co.jp
3.インターネット:wikipedia 航空機乗員養成所
4.www.aero.pr.jp/web-koku-to-bunka2008.01.15yoseijo11.ftm 航空と文化 徳田忠成
5.陸軍飛行第244戦隊 調布の空の勇士たち 勇士のアルバムから www.5b.biglobe.ne.Jp

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第44号 平成21年12月1日発行

「航空機乗員養成所の思い出(その2)」

理事 渋谷保男

「はねだ」43号のつづき

 

 

1.制度概要 修業年数5ヵ年(タダシ、当分ノ間4年6カ月間)

2.教育ノ内容 中等学校ト同等ノ普通学科ノ外、航空機操縦、マタハ航空機整備術若シクハ航空通信術に関スル教育ヲ授ク

3.在所中ノ身分待遇
 3-1:志願ノ際ノ志望二従イ陸軍志願者ハ陸軍予備生徒、海軍志願者ハ海軍予備訓練生トシテ、陸海軍ノ兵籍に編入セラル。(この文章は昭和18年以後の志願者から、それ以前は卒業後は希望により6カ月の軍務あり)
 3-2:生徒ハ全員 生徒舎ニテ起居シ、修業二要スルー切ノ費用ハ官二於テ支弁スルノ外月々若干ノ手当モ支給セラル。

 学生寮、学生宿舎 (明治、大正、昭和初期の自由時代、文部行政に軍部が介入しなかった時代:陸軍配属将校による軍事教練は礼式、分列行進、匍匐前進、偵察行動、実弾射撃、白兵戦訓練、夜間行軍、河川徒歩跋渉、手りゅう弾投擲、ラッパ練習、馬の世話、小銃の分解組立て、先兵小隊の指揮、総攻撃練習 歩兵操典 作戦用務令、軍人勅諭 指揮法などがまだ行われない時代、古き良き時代の学生宿舎の描写)
 明治の文豪 夏目漱石作の「坊ちゃん」風にアレンジするとぼっちゃん先生が最初の宿直の夜のバッタ事件の愛媛県県庁所在地松山(旧制)中学校付属の学生寮のバッタ騒ぎのような中学生が生活している寄宿舎での情景が浮かぶ。

 木造二階建て、廊下の広さは2間(約4メートル)階段の踊り場にはうす暗い20ワットほどの灯り(明治30年ごろに電気は来ていたのだろうか、ランプを使っていたようだ)。

 寄宿生の年齢は中学生(5年制)より2〜 4年上になって、つまり 17歳以上の旧制高等学校(3年制が多かった)や大学予科の学生になると、勉学に励む真面目なものが多かったが、学生宿舎(学生寮)で生活するようになると、学友のつきあいではない別の青春謳歌があったようだ。

 今でも日本の名歌のうちに入るような校歌や寮歌ばかりだった。
 「ああ玉杯に花受けて 緑酒に月の影やどしーーー」、「ーーー月こそかかれ 吉田山」、「都ぞ やよいの雲 紫にーー」、「窓は夜露にぬれてーー」、琵琶湖周航の歌。 「都の西北 早稲田の森に」、滝 廉太郎顔負けの名歌がおおかった。これらの寮歌演習は新入生のオブリゲイシオン(義務)のようなものだった。

 小生らはこれらのうたを開く時、よき少年時代を思い出す。旧制高等学校(今、大学、大学院)の入学試験は前年の12月から3月まであった。現代のようにセンター試験など無かった。 

 2月に丸坊主で受験したのに4月の入学以来、髪の毛やひげ(口髭:ムスタシュ、頬ひげ:ビヤード)を生やしっぱなしの若者、当然 ニキビもそのまま、噴火口ができて夏ミカンのような 頬、5月人形のショウキさまのような鼻すじと顔の輪郭、後ろから見れば百人一首の絵にある紫式部のような長い髪、革製の学生服かと思わせるような垢と汗と脂のしみ込んだ光沢のあるサージの黒が茶色になった学生服、個性のあるというより無理やり独自性を顕示するような、垢だらけを誇示して自己満足に陶酔しているかのような人の青春、このような人はそれぞれ、社会生活に挑戦しているようだ。

 浪人生活が長かったもの、落第(いま風ならば留年)を裏表 1イニングやって5年間、寝具をたたまない万年床。 5年間日光で乾燥しない布団、敷きふとんは腐るし、その蒲団の下のたたみはカビが生えて、わら発酵の水戸納豆のようなにおいを出していた。退寮の時に木組みの床から修理することになり、親元からの弁償金を学校当局に収めたという豪傑もいたようだ。 

 酒、焼酎などを回し飲みにしながらの、寒中の5、6人のおしくらまんじゅうの集団騒ぎ、ストーム。寮雨、黒マント、白い太い鼻緒の高下駄、ぼろぼろに破けた白線2本の学帽、寮歌を歌いながら4列横隊で道路いつぱいに、蛇行しながら歩く腰手拭いの集団。お年寄りや子供たちには 親切でやさしい学生たち。男くさい、汗と体臭のしみ込んだ木造2階建て、8畳間が並んでいる学生寮。この寮のそばを夜、通りかかると、動物園のようなにおいがした。

 しかし、そういった配属将校が学校の教職員としてまだ来ない時代の旧制高校の学生寮とまったく違って、乗員養成所の生徒舎は平屋、外壁はうすいグレイのセメントモルタル塗り、廊下の幅は5メートルもあり、陸軍の兵舎のように最大18名が住める天井の高い部屋でかべには3段の棚 片側9名の寝台、藁布団、毛布4枚、包布、木綿キャンバス生地の白色シーツ2枚の寝床、木組床の洋式の宿舎だった。

 ベッドメイクのやり方は2枚のシーツの間に潜り込み、なんだか郵便の封筒に入った手紙になった感
じだった。起床すると、すぐに隣の寝台戦友と協力して、毛布などを折りたたみ整頓して枕の位置が廊下側から見て、一直線になるように、まくらをベッドの中央に置いた。

 これらの動作は人間がロボットのように、秒単位の時間内に規則に当てはまる動作をしなければならなかった。軍隊式なのだ。民間パイロットの養成機関なのに! 陸軍生徒兼用の人事規則なのだ。

図1 内務班 これが我らの夢の床

◆生徒舎、内務班

 乗員養成所 内務班の1室、部屋の中央は通路、二人は気が合わなくても 寝台戦友として、付き合わねばならなかった。

 日常生活は陸軍の歩兵と同じ時間に縛られる軍隊式の生活なのだ。

 頭は丸坊主、娯楽室には、バリカンがあり、ホルマリン蒸気で消毒されていたが、予約制で1時間以上前に申し込んでおくことになつていた。

 頭の毛(髪の毛)を戦友同士刈り込みあうとき、このホルマリン(化学では、ホルムアルデヒド)蒸気がきつくて目が痛くなったり、鼻の奥がツンとして、くしゃみが出たりした。

 トラ刈りだろうと、2、3本毛を引き抜かれて痛くてもお互い様、ただ、時刻が気になって、[点呼]になると、半刈りでも就寝前の日夕点呼に整列しなければならなかった。髪の毛が耳たぶにさわるように長くなると、週番教官や区隊長や区隊付き教官から点呼整列のときなどにみんなの前で、その生徒の名前を大声で怒鳴られた。

図2 六尺寝台、わら布団、寝たかと思ったらもう朝だ、点呼だ

 

 日常の行事が、5分間単位のプログラムなので、朝の起床時から、夜の9時頃まで、気の緩むことはなかった。

 食事は食堂で、ご飯の盛り付けは当番制、15人の班員に2名の飯当番、1日交代制、マスクをかけたり、手拭いで鼻と口を覆ったりして、1個班員15名用の半球形のアルミ製食器3個に、不公平のないように盛った。おかずは肉じゃがとかライスカレーが人気があった。

 古河の猿島郡岡郷村は茨城県の西の端で埼玉県、千葉県、群馬県と利根川の3支流をあわせた飛行場ならば5つを合わせたような芦やまこもの茂るよしきり(小鳥)がよく鳴く渡良瀬遊水池を境にした土地であるため、当時の物資流通機構、輸送機関が現代ほど整然としてない農地の中の乗員養成所は、この近くでとれる野菜物のおかずが多かった。

 じゃがいも、さつまいも、ねぎ、トマト、かばちゃ、水戸納豆、豆腐など生の野菜はトマトぐらいで煮たり、蒸したり、揚げたりしていた。肉は鶏、豚で牛はコンビーフなどの加工品を料理の原料にしていた。

 魚は干したものが多く、たまに鯖を焼いたものが出たが、ものが古いためか生徒の中にジンマシンが出て腕や腹の皮膚が赤い山脈のように腫れ痒くて、掻けばかくほどひふの山脈は広がるばかり、校医は常駐していないので、古河の産科病院の竹沢医師を所長用の乗用車でお迎えに行き、静脈注射ですぐ回復した生徒が5、6人いつも出た。

 海から遠い内陸では海産物には恵まれなかった。仙台、新潟、米子、岡山、愛媛、長崎、天草、郡山などの乗員養成所では野菜より魚料理が多いと言う。

 飯は麦が2割、一日6合の官給、朝飯には味噌汁と佃煮か味噌づけ、夕飯にはけんちん汁などが定番であつた。牛乳L200mlほどは昼飯の後で飲んだがミルク缶ごと加熱消毒してあるので、熱いことが多かった。 

 食事の時間は20〜 25分、生徒と操縦生 300人が食卓に座り終わるころ、週番教官が赤と自の縞のたすきをかけて、教官用のテーブルにつき、「食事はじめ」と声を出す。300人の生徒は一斉に箸をとる、無言、モグモグ、うまいまずいは言わない。官級品の食糧だ。

 12〜 15分で食べることは終わる、あとは、1テーブル6人の雑談。おかずの品評会、教官のたなおろし、「食事終わり、解散」の週番の声 やっと、洗濯ができる。

 石鹸は黄色の透き通った固形せっけん、冷たい水、洗濯板なし、たらい無し、炊事場(約50メートルある)から、8リットル入りの本製の桶に熱湯を入れて二人かかりで運び、敷布や作業衣を洗濯ブラシを使って泡をたてて10分以上かかって丁寧に洗い、2人がかりで絞るころには、次の課業開始時時刻になっていた。洗濯は春、夏など気温が20度以上なら、気持ちがよく、上身裸で手早くやれたが冬場は難行、苦行だった。

図3 昼食 食堂

◆ 生徒隊づきの男あり、初年生をいじめる教官の助手補

 ある朝、キチンと畳んでおいた敷布が、午前中の課業時間中で教室、運動場、飛行場にいる間に、内務班に入ってきた何者かが寝台上の寝具をバラしていたのだ。しかも、茶色に色がついた垢と脂がついて白色シートがこんな色が付いていたことに気がつかなかった。そこに 赤い白墨(チョーク)で絵が書いてある。金魚の絵:水がほしい、と添え書きしてある。

 生徒隊の下級職員(古河近郊から通勤しているもと陸軍兵士:中国前線からの帰休兵とか生徒の思想、信条などをグリラのようにスパイ活動して、軍事教練の実技助手をしながらボーナスの点数稼ぎをしている、こづかいのような臨時職員、古河乗員養成所の生徒隊訓育係り、元歩兵軍曹 のコネで突然生徒の点呼などで週番教官の後ろについてきて、翌日の行事を読み上げたり、便所のげたの整理状態が悪い、掃除の仕方がわるい、などとしゅうと婆のような意地の悪い年齢25、6の小男の仕業だと誰かがいつた。

 「赤チョーク書きは、せんたくしろ、の謎かけだそうだ」、内務班に人影がなくなるとき、生徒が課業にでかけているあいだに、秘密に内務検査をしていて、故郷から送られてきた私物の衣類、手紙などをさがして閻魔帳に書いていたらしい。一種ののぞきである。8か月ほどして再召集で宇都宮連隊に入隊したとか。

 また、そのころの日本の国際情勢はアメリカ、イギリス、チャイナ(中国)、オランダなどの国にABCD経済包囲され、そののち、世界を相手に戦争を始めてしまった。ドイツとイタリヤと軍事同盟(ソビエト・ロシヤの共産主義に対しての防共協定)を日本がこれらの三国と結んでしまったためなのだ。(枢軸国と言っていた) 日本では、男子は20才になると、徴兵検査をうけることが義務であった。

 健康な男子は兵士になることが、国民の3大義務の一つであったのだ。(学生であれば、20歳であっても、徴兵猶予という制度はあったが、昭和18年の6月以後は理工科系、医科系、教育系:先生になるための学校:師範、高等師範、文理科大学など、以外の在学学生は徴兵された。(学徒動員である。)  逓信省航空局は同じ官庁関係にある軍部の支配を受けていたのだ。 軍部優先である。 乗員養成所の職員に現役の将校(士官)が航空局 航空官、准尉が航空官補などと日朝点呼の時、自己紹介して、古田カンポとか矢田カンポなどと言っていた。

 教官の種別は生徒たちには、よくわからない面も多くあったが、飛行科教官、教授科教官、整備科(航空機機関)教官、など、しかし、同じ教官でも、逓信省採用、航空局採用、乗員養成所採用、乗員養成所各部、科採用など身分制度があるようだ。

 いわゆる 高等官(親任官、勅任官,奏任官)は航空官、判任官(航空官補)は航空局直属、などなど。  主務官庁の格差がそのまま職員の階級を形ち作っていた。所長は航空官であり、陸軍予備大佐鈴木越朗[年齢は50歳後半にみられた。ちょっとみると、当時の首相 東条英機陸軍大将の風貌に似ていた]

 

図4 所長、区隊長、隊付をまえに、荒鷲のスタチュウと共に

図5 単独飛行を終わって

公式の式典などには、襟の真ん中 降り襟の大佐の階級章の第一ボタンのところに、日光を真っ赤に反射する子供の手のひら程の大きさの旭日勲章をつけてきた。教官、職員(運転手、整備員、炊事雇員など)のことは別の項目でのべることとしよう。建物:生徒舎の話から脱線してきたから!!

◆ 初歩練習機の飛行演習

 写真を説明する。1操縦班は4〜 5人、飛行機の胴体に座っているのは、となりの操縦班の3人。飛行時間は長くても10分間。 このあと、緊急事態の訓練がはじまる。風向きが急に変わった時の着陸、着陸復航 (ゴウ アラウンド go aroundまたは touch and go:タッチ アンド ゴウ など、操縦演習も午後5時を過ぎて、 暑い日も終わるころ、同乗していた教官が伝声管を通して、「もう1度一人でやれ」。

 待機所(ピスト)にむかって教官が地面に降りて、両手をあげると、準備係のクラスメートが赤い30センチほど長さの吹き流しを両翼のリボン線の交点に取り付ける。単独飛行のしるしだ。 準備線まで一人で運ぶ、準備係りの赤旗が自になった。

 左レバーを少し引くペラの回転が上がる、1200、 1400、速度計をチラッと見る、70、80、操縦桿をほんのちょっと引く、がたがたとでこぼこ道を走っていたのが、ふわっと機首が上がる、目標にしていた高い松の木が機首から消えた、さらに操縦かんを引く、エンジンの調子は?計器をざっと見る。

 吸入圧力計(ブースト)は、油温は? エンジン快調、 飛行場のまわりを高度300メートル以下250メートル以上で、離陸、第一旋回、第二旋回、と4つの旋回、その間は水平直線飛行、プロペラの回転数を変えたり、操縦桿を軽く握って前後左右に少し動かしたりして、機体が波乗りのように勝手に動いたり、翼が傾いて(バンク)なかなか水平飛行とならないうちに、きゅうにエレベータが下がるように沈んでゆく、これは下降気流か10mほど沈んだ後に今度はしりが下から突き上げられるような感じ、上昇気流か ヒア汗が乾くころ、「おれは、やったあ」と叫びはじめる。

 前の席にはいつもの教官殿がいない。 解放感で愛国行進曲 “見よ 東海の空明けて 旭日高く輝けばーーー”をうたいだして、急に寂しさと不安感がこみあげてきた。

 いつも教官が口癖のように言っている「飛行機は生き物だ、操縦者のこころをみつめている。友達になろうかな、それとも喧嘩を吹っかけようか、と君の出方を見抜いている。急操作をするな!!機体の運動がその操作についてゆけないと、空中分解する、乗っている人間が惨死する。落下傘で飛び出せない。操縦かんを優しく操作し、ラダーの踏み板を丁寧に操作すれば、この飛行機は操縦者の気持ちがわかるから、着陸するまで 揺りかごのように、操縦者を守ってくれるのだ。」が頭の中から聞こえてきた。

 もう、着陸態勢だ。飛行場をみる。右15度 約300メートルさきに3点姿勢になっている赤い吹き流しを付けた赤とんぼが着陸体勢になっている。ピスト:天幕付近の準備係りのたまりをみる。 赤い煙幕も白い煙幕もない。赤は直ちに帰れ、白は風向が変わったことを示すのだが、異常はないようだ。

 念のためピスト付近にある吹き流しの垂れ具合、布板のTを確認する。30度右にさっきの飛行機が着陸して、土けむりがペラの風で後ろに流れている。左手でかるく握った燃料混合レバーを少し絞る。 回転計は300、200、プルン、プルン、100か、飛行場の草むら(ブッシュ、ぼさ)が後ろに流れる。 機首をちょっと上げるが、地面効果でなかなか機体が沈まない、深呼吸をして「あわてるな」と自分に言い聞かす。 日標の松の本が見えた、15度ほど左だ、踏み棒を左足でちょっと踏み、方向修正、50キロの低速では方向舵の効きが悪い。 前輪がついたようだ、がたがたと機体に振動が来た。「よかった」、準備線まで地上滑走、教官が10倍双眼鏡を両手に持って立っているのが50メートルほど左に見えた。

 飛行機を停止させて、次の生徒が乗り組むのを待って安全ベルト、と落下傘接続環(カラビナ)をはずして、教官のところへ駆け足、挙手の礼、

 「渋谷生徒 第7号機、操縦終わり、異常なし」

 「おおむね良好、上で歌を歌ったたか」

 「はい」

 教官 「着陸のとき降下して5mの高度を目測したら返し始め、足が地面につくかなと思ったら、あげ舵をとると3点姿勢になる、 明日、天候と気流がよかったら、もう1度 一人で飛べ。」

 5mの高さの目安は燃料貯蔵ドラム缶のそばに立っている自と赤の大きな吹き流しをつないで立っている太い棒(旗竿)の高さだ。 これが目測の基準となる。やっと単独飛行をやれるようになった。

 1週間後に主任教官の同乗による技了検査(検定試験)がある予定、それが終われば離着陸操作の免許合格だ。いまなら 50ccバイクの免許のようなものだ。

 95式3型練習機は6Gまでの加速度強さ:剛性しかない。 つぎの機種は350馬力のアクロバット飛行のできる耐加速度剛性:12Gで戦闘機なみの丈夫な機体、95式1型練習機で特殊飛行−宙返り(ループ)、急横転(ロー)緩横転(バレルロール)垂直旋回、インメルマン・ターン、木の葉落とし、上昇反転などやってみたい。450ccのオフロード・バイクか750cc:7半のハレーダビットソンでウイリーでもやるように。 そしてなお、上級の後退角が15度ついている450馬力全金属製練習機99式高練で射撃訓練もやってみたいな!!! 次第に空の暴走族のような危険なことをしてみたくなるイカレタ青年へと変身していきそうだ。

 この夜はなかなか眠れなかった。明日はよい天気で着陸の時に横風が吹かないように!と暗闇のなかでなにかに祈っていた。体が静かに沈むような感じがしたら、もう眠ってしまった。

以下、参考文献
1.新潟航空機乗員養成所 1990、記念誌編集委員会
2.陸軍飛行244戦隊 勇士のアルバムその4  熊本(黒石原飛行場)
3.我妻 「陸軍最年少航空輸送兵」 光文社 1995
4.航空と文化 航空機乗員養成所物語 WEB版徳田忠成
インターネット www.aero.or.jp/web-koku/Youseijo 日本航空協会 2007
 

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第45号 平成22年 6月1日発行

「官立 逓信省 航空局 航空機乗員養成所の思い出 その3、初練のこと」

理事 渋谷保男

第3編

 民間飛行士になりたくて、アメリカ陸軍機B-25が16機、日本本土の大都市、東京、大阪、名古屋などを昼間に空襲した頃の昭和17年4月(日米開戦直後 時期がわるかった)、北は北海道、南はフィリッピン近くのパラオ諸島(当時は日本領土であり、行政区は東京だった)と、日本全国から生徒予定者が乗員養成所に入学(入所)した。飛行帽に陸軍を示す革製の星のマークが正面に縫い付けられているのに驚いた。

 空中適性検査のため、10分間のテスト飛行はベテランパイロット教官同乗の指導で、最初に古河飛行場から飛び立ったのは95式三がた練習機。

 この飛行機についてはその後、合計12時間(約3カ月半)、離着陸、飛行場のまわりを高度300m〜500mほどにとり、その間に傾斜角(バンク)15度旋回、30度旋回、水平飛行、「機首を筑波山に向けろ、次は赤城、高度を1000に上げろ」、次は錐もみと回復、そして、空中始動、高度1500でスイッチを切り、ペラが止まる。いままでのエンジンの爆音が突然消えて、ひゅー、ぴゅー という張り線(リボン線)が風に鳴る音。ペラの風車効果による強制始動、機首を30度ほど突っ込んで急降下で注射、点火、エンジンがプルンとなり、ペラが回転し始める。エンジンが回らなければ、空中滑走だ。脇の下に汗をかく。やっと正常なぺラの回転数にもどる。

 速度は120キロか、巡航速度が100キロだったか、今では新幹線の250キロより遅い。しかし、昭和の10年代では特急の蒸気機関車の最高速度が80キロほどであった。普通の乗用車で、50キロで走ると速度違反の時代であった。水平飛行にもどって、レバーを絞る(自動車ならばアクセルペダルを最低にするのと同じ)。速度は60キロ、50キロ、地面が近づく、3点姿勢の着陸、高度が5〜7メートルで、失速しかけてフラつくと、ペラの回転数を上げ着陸復航(タッチ・アンド・ゴウ)、矢継ぎ早の飛行訓練、やっと着陸(もっとも 注意すべき操作、神経が擦り切れるほどの日測と高度と速度、飛行機の姿勢)。

 一回の飛行時間は約10分間、風向、風速、吹き流しの赤白の垂れ具合、T形布板の向きで風の方向をチェック、現代のように無線連絡などまったく無し、同乗の教官殿からの伝声管の声だけが頼り。 教官はよく怒鳴ったが、体罰を受けたことはなく、空中操作(プロパラの回転数と速度の関係や横すべり無しで30度旋回をした時など 君は天女の子だ。などベタ褒め)をうまく褒めて、いい調子に生徒をさせる雰囲気であつた。

 45度旋回がこの練習機3型の最大バンク角度、 体にGがかかり、腕が重くなったり、首で頭の重さが感じるようであった。宙返り、横転などは機体の構造が弱いので、特殊飛行は禁上の飛行機、飛行演習は風速10メートル以上の時は待機。

 雨天で野外訓練不可の時は気象学、航空生理学、空力、初等力学、数学、幾何、地形学、材料学、流体力学、構造力学、三角法、燃料等油脂、2日以上の荒天時には体育館で地上転回、空中転回、剣道、器械体操(フープ)など。 一般学科は、国語、英語(テクニカル・イングリシュ)、図画、木工、音楽。音楽は製図室にピアノがあり、古河の女学校の音楽の先生が教えた。和音でエー、ゲー、ツェーなどと、合唱「浦の明け暮れ」など歌った)。 晴天の夜の9時、点呼まえ15分間、星座観察(夜間、航法訓練の準備)、カシオペイア、オリオン、大熊座、銀河、など現在の東京の夜では見られない星の姿であった。

 なお、新潟乗員養成所では、板金、溶接工作術でノモンハン事件のとき、活躍した97戦が教材であった。噂ではノモンハンから持ち帰ったものらしい。墜落して破損した機体、故障、破損してアルミ材としての骨とう品だとかその中の、1機は仙台から空輸してきた完全品。

 座席のうしろの胴の下部が 点検用の開閉式になっていた。専門学は科目の講義が終わると、すぐに10分テスト。しかも3週間目の総合試験。
 術科は基本工術。95式3型練習機、初練で横風着陸や3機編隊飛行を終わると、95式1型練習機中間練習機(中練)による離着陸、らせん上昇、8の字旋回、垂直旋回など 構造から20Gまで、の空中操作ができるアクロバットをかるくやれる練習機の予定だったが、戦局が不利になり、日本の近海に敵アメリカ軍の潜水艦や魚雷艇、敵の空母艦載機グラマンF6F、W字がたの翼のヴォート・コルセア戦闘機が昼間に飛行場を急降下して爆撃したり、地上掃射が始まるころ、この中練は大平洋戦争中に2,618機生産されたが(筆者、註)(橙黄色に塗られていて「赤とんぼ」と呼ばれていた)もう民間飛行士の訓練どころか、航空機乗員養成所操縦生、本科生は学徒動員、19年3月から陸軍飛行予備生徒にされた。

 天皇の命令である。勅令第000号による命令であった。昭和20年の3月ごろから機体を黒く塗って、カラスのような95式1型中練が飛んでいた。 時は台湾沖航空戦で日本海軍が連合艦隊、全滅し、硫黄島はアメリカ空軍のP-51戦闘機基地となり、沖縄伊江島守備隊全滅、沖縄ヘアメリカ軍が約七万の海兵隊が上陸戦を始めたころ、日本の都市、橋、港、鉄道などはアメリカ軍のB-29やP-51のほか空母艦載機で、夜ばかりでなく、昼間でも、天候が大雨の日以外は堂々と空から攻撃してきた。

 小生が1945年3月、古河から転属した新潟乗員養成所飛行場で夜間、特別操縦見習士官(特操:階級は曹長)たち約100名が、この95式1型練習機(中練)で急降下訓練をしていた。特別攻撃隊の体当たり訓練である。 夜6時から12時ころまで夜間の急降下訓練、海岸の波打ち際に激突、炎上したのも2機あった。4名死亡、殉職。

 飛行場は信濃川と阿賀野川の間の海岸地帯にあったが、発動機の排気管から光る紫いろの火炎が出て、燃料の質が低オクタン値の色であった。 もう金属製の飛行機は本土決戦用に掩体壕に入れて、敵機が上から見ても、農地にしか見えないようになっていた。 燃料も良質のオクタン価が高い99〜 97ガソリンは無く、サツマイモを醸造してとったエタノール(アルコール)が航空燃料であり、これをドラム缶(200リットル入り)に入れて松林の中に埋めていた。
 写真(図1)は95式1型練習機(中間練習機。中練)の腹の下から95式3型練習機(初練)を写したもの。 熊本乗員養成所の飛行場での一こまである。航空機乗員養成所は全国で、15か所あったが、一辺1000mの正方形の飛行場が典型的である。

図1、 95式3型練習機初練

 高等乗員養成所の飛行場は1,500mの正方形であった。99式双発高等練習機MC-20やダグラス・DC-3などが航法訓練や離着陸訓練、計器飛行(盲目飛行)訓練のため、滑走路(草原であった)を延長したためである。

 練習機は民間飛行士用には割り当てられなくなっていた。初練は燃費が悪いし、アルコール混合燃料では永く飛べないので、分解されて、木の枠組みにいれられて、松林のなかこ、黒ずんだコールタールを塗ったシートに覆われていた。その代わりの練習機は隊長養成の航空士官学校士官候補生用のユングマンという軽、スポーツ機になっていた。この飛行機のエンジンは燃費が良く、アルコール混合燃料やオクタン価の低いものでもなんとか飛べるらしい、ドイツからのコピーとのことだ。 日本本土の飛行場に燃料の備蓄が少なくなってきた。満州には関東軍用の軍事物資が大量に集めて置いてあった。ソビエト・ロシア軍との戦争用に備蓄したのだ。
 そして、士官候補生たちは満州へ1945年8月15日の日本が連合国に降伏した直後に士官候補生たちは内地へ向かったという。
 そのほかB-29、迎撃戦闘機用に拡張した本土の乗員養成所の飛行場も10か所もある。95式3型練習機は木製の翼構造、胴体は鋼管縦通材、羽布張リ、エンジンは7シリンダー、 150馬力、木製固定ピッチで直径2.30mの飛行機だ。「こんなプロペラの設計でどうする」と叱られた。

 しかし、陸軍では練習機としてはやさしすぎて“女性向きの飛行機”とされ、民間の航空局 航空機乗員養成所に訓練用として使用された。プロペラ設計者としては低下したプロペラ生産技術(木製)のため、エンジン過回転に悩まされた練習生がいたのではないかと心配している。と 佐貫亦男元東大教授は彼の著書で述べている。

 初練(95式3型練習機)は上下翼とも等スパン、等翼弦の典型的な複葉機で総生産数は560機といわれ、1種の“国民機”になった。垂直尾翼の形に ガス電のちの日立航空機、石川島重工のR5の伝統が見られる。(つづく)

文献
1:「異端の空 太平洋戦争日本軍用機秘録」渡辺洋二著:文春文庫2000年7月25日 119〜172ページ

2:「陸軍 少年空輸兵 物語 最年少パイロットの回想」永妻 寿著:光文社1994年11月3日

3:「ヒコーキのこころ」佐貫亦男著:光文社 

4:「飛行25000時間」高山正之著:文芸春秋 1993、12月5日


図2、 95式3型練習機初練
(※)ホームページ掲載にあたり、一部加筆・訂正しています。(著者)

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第46号 平成22年12月1日発行

その4 航空気象学と銅像のはなし

理事 渋谷保男

1 航空気象学
 秋風よ 昭和のときは 遠くなり。
 今年は猛暑で、九月二十三日の秋分の日まで昼間は三十度を越すことが多かった。
 しかし、お彼岸を過ぎると、日中の気温は十度も下がって、空には青空と鰯雲が浮かび、風は北風になってきた。昼の蝉の声も遠のき、草むらからの鈴虫やこおろぎのバイオリンが鳴り始めた。満月が東から輝きはじめ、虫たちのコンサートが始まったようだ。夕風が肌にここち良く、空には金星が光り始めた。遠雷のような連続した音が月の出の方向から鳴り始め、赤、青のあかりを左右につけた大型旅客飛行機が頭上を通過していった。高度は八千をこえ一万ほどか。次の飛行機も見え始めたが、爆音の方向にはおらず、千メートルも前方にいるようだ。

 ふと、明日のお天気状況が急に気になりだしたので、ラジオかテレビの気象予報を聞こうと思った。そうしたら急に思い出したことがあったのだ。ラジオの天気予報といえば昭和十六年十二月八日以後、ラジオ番組から消えたのだった。軍部の命令で日本本土の気象状況は敵機の空襲の情報となるためだったのだ。いまなら気象衛星で地球上の雲の位置、風向き、風速、気圧などなんでも知らせてくれるのだが。

 七十年も昔の話である。小生が航空機乗員の養成所生徒になり、最初の専門科目七科目のうち、教室講義であった航空気象学は午前中一週間連続の授業であった。気象台から着任した若い特任教官は話し方も明瞭で頭の回転も良く、生徒の質問にも的確な即答であった。雲の写真がたくさん貼り付けてある教程(教科書)を暗記するまで覚えさせられたものである。天気の良い日には、戸外での観天望気、風速計の使い方の実習であった。

 また、それとは別にこんな授業もあった。体感風速の感覚を習得させられる授業だ。というのも、飛行機で飛んでいるときの気象状況の観察は気流に巻き込まれるのをさける重要な要素だからだ。時には生死を分ける重要な要素にもなりえる。当時の練習機に無線通信装置はないから雲の状態、湖沼上の浪の様子、木々の動き、とんびやカラス、水鳥の飛行状況の観察などからの情報を自分自身で判断して、気流、風向、風速をきめろ、というのが授業で飛行機に本格的に乗ることを目指す飛行訓練生には重要な授業だ。講義の最後には雲の映画を見せられて突然画面が止まり、「この雲の形状・高度・厚さを答えよ」と口頭試問があり、即答させられた。つまりこのことが理解できていないと実際飛行中の生死が分かれることにもつながるからだ。更にこれが飛行適性検査の一部でもあったのだ。

 そういえば昭和五十二年ごろ、NHKテレビの朝ドラで「雲のじゅうたん」という女流飛行士の一代記があったが 本当は雲は絨毯どころではない。とくに雲中飛行では乱流に巻き込まれて空中分解することもあるからだ。

 小生は本格的な戦闘用航空機乗員になる前に戦争自体が終わってしまった。

 昭和20年8月15日、日本は連合国軍に降伏した。また「航空」(飛行機を作ること、航空路線の廃止、航空機に関する研究、教育など)全体が連合軍によって禁止になってしまったが、航空局では乗員養成所生徒、卒業生たちに気象官養成所(気象大学校)への編入を斡旋してきたりした。(その他、高等商船学校、逓信官吏講習所、鉄道教習所、高等電波電信講習所、水産講習所、農林試験所など、逓信省、運輸省を主とした政府経営の教育機関などであった)気象官養成所はあと1年で卒業する予定とか、卒業後は日本各地に配属されることになるとのこと。要するに観測所要員だ。降伏したばかりの日本は食料がなく、国民は飢餓状態であった。学生生活も餓えとともにあり、真面目な裁判所の判事が飢え死にするような時代であった。

 結局気象の道へ行くことはなかったが、その後も大空を仰ぎ見ては卷雲、入道雲(積乱雲)など雲の種類を観察して、今も「航空」との付き合いは続いている。

2 銅像のはなし、レトロ(回顧談)な話
 JR東京駅は戦前、オランダのアムステルダムの駅のコピーだった。戦前は中央口の屋根は赤レンガ積の駅舎の丸ドームだった。B29の夜間空襲爆撃で破壊され修理後の今では台形に改造されている。

 戦前の東京駅発の路線は中央線しかなかった。現在の東京駅の次は 神田、その次はお茶の水であるが、昭和十八年までこの間に「万世橋」という駅があった。路面電車(東京市電)の須田町通りの駅前の広場の一角には高さ十五メートルほど、直径十メートルの大理石の銅像の台座があり、その頂上に黒い海軍マントを風になびかせた海軍士官の銅像が当時あったのだ。

 一人は右手に双眼鏡をもち、丸い海軍士官帽子をかぶった人物。もう一人はその位置から五メートルほど下の中段に大きな斧を右足の膝に載せて脚を開いて腰かけて上を向いている海軍下士官であった。この二人は、軍神・広瀬中佐、杉野兵曾長であった。この銅像塔の下段に銅版で「とどろく つつおと とびくる 弾丸、荒波あらう デッキの上に 闇を貫く、中佐の叫び 杉野はいづこ 杉野はいづや」(文部省唱歌)と彫られていたのだ。

 しかし、万世橋駅が昭和十八年廃止になり、その後すぐに跡地は鉄道博物館となっても、この銅像は壊されることはなかった。更に昭和二十年以降もこの銅像は敗戦で打ちひしがれた国民の目に希望すら与えつづけた。というのも、当時は日本と旧ソ連(ソビエット・ロシア)の間に平和条約などはあるはずもなく、この銅像がそれ以前に起こった日露戦争時の旅順港封鎖の英雄の雄姿となって人々に希望を与えてさえいたというわけであった。しかし昭和二十二年、須田町通りの拡張工事のために東京都の決定により、この銅像は壊されたか撤去された。他には戦時を思わせる銅像が今も残っていたりするのだから、(たとえば皇居前の楠公像) 人やモノというものは時代に大きく翻弄される、それが昭和という時代だった、そんなことを思わせるレトロな話です。

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第42号 平成20年12月1日発行

「私の育った頃の生活と遊び」


団長 新井典郎

 人の記憶はよく『壷(つぼ)』にたとえられるといいます。人は誰でも両親によって与えられた純白の壷を持っており、その壹には成長とともに小さな思い出の数々が宝石として光り輝きながら一つずつ投げ入れられて積み重なり、思春期、も終わるころ、ほとんど一杯になってしまい、それから後の思い出の宝石はすぐ溢れ、こぼれてどこかへ転げ去り失われてしまうのだそうです。 私の小さな壷にも幼かった頃の思い出の宝石が大切にしまわれており時々取り出しては眺めています。 今から60数年前になろうとする思い出の宝石の一部を紹介したいと思います。

 春:関東平野の北に位置する赤城山の山麓の村の寒く永い冬も、終わり、新緑の萌えるころ、小学校(村立国民小学校第5分教場)の一学期が始まります。 村のはずれの小山の上にあった木造の古びた校舎は校長先生の住む官舎、用務員さん(当時は小使さんと呼ばれていた)の住宅、先生の事務室、裁縫室兼救護室、それと3つの教室で、先生は校長先生を含め3人。 1、2年生、3、4年生、 5、6年生がそれぞれ7つの教室を使っての複式授業でした。 各学年は十数人名程度で黒板に向かって右側に低学年、左側に高学年が座り、机は2人並び、椅子は1人掛けで木製の机の蓋には過去何十年もの間に、いたずらで彫られた落書きが至る所に黒光りしています。 卒業式や学芸会などの全校行事の時は2つの教室の間の仕切りが外され講堂となりました。 一周100メートほどの校庭は桜と杉の木に囲まれていました。 当時、村では養蚕が盛んで年3回繭がとれ、桑の新芽の出る頃の春蚕(はるご)には家族総出で桑の葉摘みに励みました。 続いて麦刈、田植えがあり小学生も家の手伝いのため休校(田植え休み)となりその分夏休みが短くなりました。 一寸渋い「田植えグミ」を食べたり、ドドメ(桑の実)で□のまわりや手が紫色に染まるのもこの頃です。

 夏:いよいよ楽しい夏休みです。 朝起きて顔を洗い、びんばり(クワガタ)のいるクヌギ林を確認してから宿題の1ページをすませて、午前中涼しいうちに決められた田畑の草取りを終え、芋が主の昼ごはんもそこそこに近くの渡良瀬川に行き、日暮れになるまで泳いだり、蝉取りや砂遊びに夢中で過ごしました。 雨が降り多少水が濁っていてもこの日課はかかせません。 対岸の隣村の子供との小石の投げあいの戦争ごっこも毎日で、思いつく限りの悪口を叫びあいましたか、けがをするようなことはめったにありませんでした。 帰り道には未熟のくるみや栗の実を食べて手や□を濃い茶色に染めたりもしたものです。

 秋:その年最後の秋蚕(あきご)が終わるとまた休校(稲刈り休み)があり子供たちも張り切って手伝います。 刈り取った稲の束をハザ(天日干し用の粋)にかける頃、日暮れの風も冷え冷えとしてきます。 楽しみは、きのこ採り、くるみやクり拾い、アケビや赤や黄色に熟れたグミ(木イチゴ)採りで子供たちはどの山のどの木がいつ頃完熟して採り頃なのかをよく知っていました。 日も日一日と短くなり、だんだん寒くなってきます。

 冬:遠く三国峠を越えて風花(ふっこし)とともに「赤城おろし」が吹きわたります。 強い風にあおられた小石で下駄や藁草履(わらぞうり)の上にはいた足袋のすぐ上が切れ血がにじむようなこともありました。 主な遊びは手作りのコマ、ぺったん(めんこ)、竹トンボ、竹の弓矢、凧、木の枝を利用したゴムパチンコ、釘倒し、ネッチン(びー玉)、ぷっちめ(小鳥のわな)、縄跳び、輪回し、馬跳び、橇すべり、飲水の樋に下がった「こおりんぼ」(つらら)をしゃぶったことなど、思い出せばきりがありません。 手足のひび、あかぎれはいつものこと、遊び道具はすべてが手作りなので小刀、鎌、鉈で生傷が絶えませんでした。

 冬の教室には大きな箱型の火鉢が置かれ小使いさんがあかく燃した炭を入れてくれ、昼時には金網を乗せた上で弁当を温めたり、持ってきた粟(あわ)、黍(きび)やもろこしの実を搗きこんだ塩味の餅や乾燥芋を焼いて食べるのが楽しみでした。 農作業に忙しい母親に代わり幼子を背に負い学校に来る生徒もいました。

 こんな風に書くと宮沢賢治の童話や東北地方の民話の世界を思い起こすかも知れませんが、そんな文学的感慨とは別に、太平洋戦争は日に日に激しくなり、村の青年や壮年までもが毎日のように万歳や歓呼の声と日の丸の小旗に送られ、朝一番の汽車で出征し、戦場に向かっていました。 そして私が小学校3年生の夏、8月15日、日本は連合国との戦争で壊滅的な打撃を受け、敗れて終わりました。 私たちはそんな事もよく知らず元気に遊んでいましたが、夫や父、兄弟といった働き手を失い後に残された家族は大変な苦労を強いられた時代でした。

 苦しく、悲しい思い出も沢山ありますが壷の底に隠れているか、縁からこぼれてしまったようです。 戦争で肉親を亡くしたご家族を思うとき、様々な混乱があるにしても、現在の平和で豊かな生活は、当時貧しくも懸命に生きていた人達の大きな犠牲の上に築かれたものであることを決して忘れてはなりません。 そして皆で力を合わせ、いつまでも平和に安全で、楽しい住みよい毎日を子、孫たちと送りたいと思っています。

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第41号 平成20年 6月1日発行

「私と羽田航空少年団」


理事 前田みなほ


 日航スチュワーデスOGからの要請でそれまで松本さんと坪井さんがしていらした会計を引き受けました。1992年の春のことです。こうして羽田団の役員としての活動が始まりました。当時の事務所は昔の羽田空港国際線ターミナルの2階に有りました。今にも天丼が落ちて来そうな部屋ではありましたが そこで「どうしたら団員が喜ぶ行事が実現できるか」を毎月一度の役員会で真剣に議論をしたのが既に15年も前のことであったとは夢のようなことです。あの「雲の絨毯(じゅぅたん)の及位(のぞき)さんが参加されていたり、故人となられた伊沢さんがさっそうとしておられ、現在社会人として活躍している幹部団員の坂本君がまだ小学生であったのもその頃のことです。


 時間の許す限り、私も様々な行事に参加していました。その中でも、キャンプで山に泊まり、久しぶりの野外での料理などをして、学生時代のガールスカウトでの活動を思い出すこともありました。多くの方々との出会いは楽しい思い出以外の何物でもありません。その中でも日航スチュワーデスの大先輩の内藤さんが役員に加わられ、豊かな経験からのエネルギッシュな活躍とやさしい人柄からの穏やかな雰囲気でなごましていただき、学ぶことの多い日々でした。

 私は、会計を受け持っていました。北城さんが収入と支出とバランスをとって育成会に資金面での援助をいただき、行事がスムースに実行出来るようにと毎年緻密(ちみつ)な計画をしていたしたので、何とか事務処理を無事にすることが出来ました。


 その中でも、思い出に残る行事の一つは「団員達をグライダーの飛行を経験させたい。飛んでいるという実感が何にも増して味わえるから・・・」と眼を輝かせて提案され、それまでには無かった大きな費用を捻出してグライダーの体験搭乗を実現させた事でした。

 羽田航空少年団は、パラセールの小さなフライトからさらに一歩大きく羽ばたきを始めたのです。これはその後に毎年の恒例行事となった小型機やヘリコプターヘとつながりました。このような行事を実行するのにはリスクが全く無いとは言えませんので、踏み切るのには多くのハードルも有りました。久保さんはそれを大きな心で「すべての責任は持ちましょう」の一言でテイク・オフが叶いました。

 

 羽田団の役員は、一年間の行事の中でその月の担当者となって責任を持って積極的に運営をする事になっています。そこで私が先ず取り組んだのが「ユニセフ・ハンド・イン・ハンド」でした。

 

 日航スチュワーデスOG会の役員をしていた時にも 毎年12月に街頭募金やユニセフの事務局で奉仕をしたりして ユニセフの活動に参加していましたので、その延長で羽田航空少年団でも「世界の子供達のために何かをして行きたい」という思いでした。 これは久保さんが大変評価をしてくださり、「羽田空港での募金活動が出来るように」といろいろな機関に働きかけをしていただきスムースな活動が今でも続けられています。

 

 これは「達成感がある」と団員にも受け入れられているので、私としてもやり甲斐を大いに感じている活動となっています。ある年の日航OB会で杉本さんにお目にかかり「役員へ加わっていただけないか」と唐突にもお願いをしましたが、快く承諾していただけました。それからは役員の新規参入がコンスタントとなり、活発で和気藷々(わきあいあい)とした役員会が続くようになりました。その一人に団長として活躍された故村田さんがいました。特に「城南島でバーベキューをしながら、羽田空港を離発着する航空機を見る」といった行事等では、面倒見の良いユニークな人柄で参加者に大きな喜びを与えて下さいました。

 2005年からはIACEとの係わりも持つようになり、私の活動はさらに大きく変化をする事となっていきました。


 新井団長の推薦で訪米団のエスコートとして、 2005年にはイリノイ州に派遣されました。愉快な6 名の団員の中には石川北斗君が含まれていて、羽田団からは私の知る限りでも彼が6 人目でした。

 
 次々と良い体験をする機会を得られて素晴らしい事です。どうしたことか、続けて2006年にはコロラド州への派遣で、若い6名の団員達と訪米しました。

 ワシントンDCでは、IACEの豊かな経験をもつスタッフと親しく交わり、十数力国からのエスコートと語り合い、毎年百名を越す大勢で猛暑の中での観光等は、忘れ難い体験でした。どこまでも続く大平原のイリノイ州を一台のバンで、かつてのルート66を何時間もかけてえんえんと走行したのは、英・加・日のカデットとエスコートの忍耐強さを示したところでした。ウイスコンシン州オシュコシュの航空ショーでは、世界中の航空機が数を数えられないスケールで展示され、上空を20機も30機もが一度に飛び交う豪華なデモンストレーションに圧倒されました。空軍のパワーに感じ入りました。

 コロラド山脈の雄大さは、カデット達のダイナミックな活動には充分過ぎる程の絶好の舞台でした。海抜1マイル(1600m)のデンバーをセスナで出発して、海抜3026mの滑走路に着陸したのは感動でした。ライフル銃の射撃や山道を馬に乗って歩いたのも初体験でした。ホーム・スティでは、スタッフのお世話で各地のアメリカの家庭生活も味わえました。

 2007年は、今度はアメリカとカナダからの訪日団をお世話するという活動にも加えていただけました。立川消防署、羽田の航空管制塔の見学、はとバスで東京見学、東京ディズニーランド等で一緒の時間を楽しみました。

 快活で好奇心一杯の6名は、日本文化を精力的に学ぼうと何時も目をキラキラとさせて鋭い質問を投げかけてきました。全員が和食好きで、納豆・魚の干物も抵抗無くお別れ会ではスパゲティーをお箸で食べていました。毎年担当をしている田林さんも「こんなに何でも受け入れるメンバーは珍しい」と目を丸くして驚きを隠せない様子でした。

 今年はどのようなエスコートとカデットが来るのだしょうか?

 今年、2月に航空振興財団から表彰を受けました。ただ、羽田団の役員として年月を重ねていただけの私が、賞状や記念品をいただいたのは意外な出来事でした。立派な足跡を残された方ばかりに有り得る事で、まさか自分が対象なるなどとは想像もしていませんでした。これからに期待をされての事でしょう。

 さあ、2008年は何をしましょうか?


 わくわくしています

 羽田団の活動に力を入れるのは、もちろんですが、何らかの形で航空少年団の国際交流に役立つことが出来れば、幸せな事と思います。その時に一人でも多くの団員が一緒に活動して欲しいと願っています。

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第39号 平成19年 6月1日発行

「羽田再拡張に際して」

顧問 久保俊郎

 羽田再拡張と称して4本目の滑走路の建設が3月末から始まる。 最近の発表で、羽田は世界で4番目の年間6500万人を扱う空港となった。 当然4本目の滑走路が出来れば、東京が政治、経済、文化の中心地である限り、この数は益々増えて行くであろう。 発着能力は29.6万回から40.7万回になる。 それはピーク時に2分に1回の発着が、1.5分に1回ということである。 問題点は新滑走路の利便性である。 我々の知る限りでは2500メートルのものだが、平行誘導路が併設されるのか、またエプロンに至る誘導路は何本になるのかによって利用率が大いに違うと思われる。

 羽田といえば私にとっては子供の頃からあこがれの空港であった。 朝鮮総督の小磯国昭氏が総理として上京するのは京城の飛行場から出発する飛行機によるものであったし、諸外国の要人もすべて羽田着の航空機によるものであった。 不思議なことに私自身が昭和30年1月に羽田に勤務することになり、当時408万平方メートルの空港面積が、1200万平方メートルと3倍になり、空港ビルも同地区に小ぢんまりとしたものが、同年5月に国内、国際カウンターを有する堂々たるものができた。 この年年間利用者は国内100万人、国際10万人を突破した。

 昭和35年にはジェット機が就航し、B707、DC 8型機など従来機の3倍の乗客がかつ2倍以上の速度で6倍の輸送力をもつことになった。 昭和39年は東京オリンピックの年でり、Cランウェイ(3150メートル)が同年春に使用開始した。 空港アクセスもモルール、羽田高速道が出来るが、これらの照明が、空港のライトと所謂類似灯火とならないか、羽田と本省の間で討論され係長クラスの私が羽田の意見を述べることとなった。

 昭和45年にジャンボ機等大型機が主流を占め、同46年3月にはBランウェイが2500メートルに延長された。 しかしこの使用は以前から川崎コンビナート上空の飛行をさけるため、04の離陸と22の着陸(※)のみがゆるされていた。 年1回、春の強風のとき必ず1日はこの滑走路でしか発着できないことがあったが、エア・ラインの意向を充たすことはできなかった。

ジャンボの出現はジエット機の就航後僅か10年のことであり、その間騒音問題が起こった。 住民の中でも大田区よりも品川勝島あたりが着陸機の低高度の下にあり、苦情電話の内容にも英国機だのアメリカ機だの標識を見てのものであり、毎晩数十件の電話があった。 若手職員の中では夕食の弁当もノドに通らぬ様であった。

 昭和53年5月、国際線は成田に移転したが、平成4年12月には年間利用者は4000万人を突破した。 これでもって国際線の空港ターミナルビルが完成し、モルール、京急とも新ビルに直行できる様延伸された。 ちなみに新ビルは南北に800メートルの長さを持つ。

 さて、新滑走路完成後の使用問題だが、国内線は勿論だが、国際線の一部東南アジア全体を含むべきだと横浜市や都は主張し、成田は中東、欧州、米国用としたらという意見があるが、国は如何に考えるか、国際を成田に移した経緯から興味あるところである。

 千葉県知事は成田−羽田のアクセスを向上させるべきと主張するが、も早陸上については限界に来ていると思われる。

 成田−羽田間を大型ヘリで結ぶ方法が最も早いが、この方法は採算上一度失敗している。

 丁度この稿の執筆中、3月13日に大阪発高知行きの全日空機が高知着陸前に前輪が出なくなり、1回ゴーアラウンド衝撃による前輪の出現を計ったが成功せず、約2時間の旋回飛行で燃料を減らして無事着陸した。
イラク戦争で燃料高と、路線により客数に応じた中、小型機の多用で各社は採算上努力しているが、このカナダ製DHC8型は、中部、大阪、鹿児島あたりからの近距軽で約200便運用している。 プロペラ機だが時速650キロとジェットにせまり、騒音が小さく、輸送量が大きく経済性が高いといわれるが、故障も多いようだ。 今回はヒューマンエラーではなかったが、先日引退したYS-11の存在が借しまれてならない。 このことは羽田の再拡張と直接関係はないが、日本全体における航空事情に及ぼす影響は大きいのであえて記したものである。(3月20日)

(※)編者注:滑走路の方位、「04」=北から右回りに40度の滑走路で当時のB滑走路を西側から海に向かって離陸。「22」=同じくB滑走路を反対側の海側から着陸。

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第38号 平成18年12月1日発行

「航空会社の色々な仕事について」

団長 新井典郎

 航空少年団の団員の皆さんは大空や航空宇宙に非常に関心があり、また社会人になった時、航空に関係する仕事で活躍したいと思っている人も沢山いるのではないでしょうか? 過去何人かから質問があったので今回はそんな団員のために航空会社のさまざまな職場を紹介したいと思います。

 航空会社は自動車、家庭電器、鉄鋼などの会社と異なり実に様々な職種から成り立っている総合的な航空輸送にかかわるサービス産業です。 将来、航空会社で働きたいと希望している団員は自分の能力、適性、長所をしっかり見定め、確認して、目標に向かって準備し、毎日努力することが何より大切です。 航空会社といえば誰でもすぐに思いつくのはパイロット(運航乗務員)やキャビンアテンダント、スチュワーデス(客室乗務員)でしょう。 日夜を問わず大空を飛び離着陸するJET機を安全に操縦し、機内での快適な空の旅を約束する人達です。

 しかし、こうした人達を支えているその何倍もの数の職種の人達がいます。 たとえば、健全な会社経営を図る為の経営方針や路線、便数、機材計画、それに必要な資料の収集、分析、立案、国内外の交渉に携わる部門、全てのコンピューターシステムを統括する情報システム部門、決定された方針に従って具体的な旅客、貨物輸送に関係する販売活動を行なう部門、空港でお客様が満足されるサービスに力を注いでいる旅客、貨物運送部門、運航乗務員の訓練、資格、勤務、健康管理や運航方式、性能に関する運航規程の、管理、実際のフライトの飛行計画や安全な飛行を見守っている運航管理に携わる運航部門、客室乗務員の訓練、客室でのサービス方式、機種による客室乗務員編成、勤務に関わる客室部門、そして安全運航に直結する完全に整備された機材を提供するために必要な整備士の訓練、育成、整備実務を実施している整備部門。 これらを総合的に支援する人事、総務部門などがあります。

 一般に販売やお客様のサービスに当たる部門、航空機の運航に直接かかわるパイロット、運航管理者、整備士などが働いている部門を現業部門または直接部門、企画、人事、情報、総務などの部門を間接部門と呼んでいます。

 空の旅で目に触れる以外にも普段目にすることの出来ない沢山の職場とそこで働いている人達の努力と協力により毎日のフライトが支えられています。 この他にも航空会社の周りには機内用品や機内食の準備と搭載、給油作業、空港で使われている特殊な車両整備、手荷物貨物搭載取卸業務、機内清掃など数え切れないほどの職種と人達が航空会社を支えているのです。

 さあ皆さんも、どの仕事が自分に一番適しているかを考え将来の仕事を選んでください。

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第36号 平成17年12月1日発行

「旅客機の運航管理の話」

団長 新井典郎

 昨年度の少年団行事で日本航空の東京空港支店航務部で国内線の運航管理業務を見学し多くの女性社員が専門的な職場で活躍している姿を見て大変頼もしく思いました。 今回は団員の皆さんの知識を深める意味で運航管理について紹介します。

1.運航管理という仕事の誕生

 1903年12月17日アメリカのノースカロライナ州キティホークでのライト兄弟によるわずか260mの歴史的な初飛行から100年あまりの短期間に航空機は素晴らしい発達を遂げ、最近のニュースではヨーロッパのエアバス社による800人乗りの巨大機A380の完成も伝えられています。 今や民間航空業界では長距離、高速大量輸送がごく普通のものとなっています。

 誕生して間もない頃、航空機は主に郵便輸送に利用されていましたが、操縦するパイロットは出発前の機体の点検、荷物の積み下ろし、重心位置の計算、飛行経路、気象情報、出発地や目的地、経路上の目標物に関する情報など自分の飛行に関する事柄の全てを自分一人で処理しなければなりませんでした。 航空機の発達に伴って旅客や貨物の量も増え、路線網も拡大して、必要とする情報量は膨大なものとなってきました。

 そこでパイロットの負担を軽減し、特別な技術を必要とする航空機の操縦に専念してもらう為、地上で出来る多種多様な情報の確認は一定の資格を満たした別の者に任せる制度が生まれました。 パイロットが必要とする出発前の準備作業や確認を地上の有資格者である運航管理者:フライトディスパッチヤーに肩代わりさせ、パイロットが空港の事務所に出頭したときには、全ての情報が分析、整理され出発の準備が整っているという事は予期出来ない情報の変化に対して予め対応策をたてるための時間的余裕があるため効率的な運航をおこなう上で非常に役立つこととなりました。

2.運航管理者の仕事の内容

 運航管理者にはそれぞれのフライトの実施にあたって機長が必要とする全ての情報を集め、分析、整理して伝える責任があります。 この仕事は飛行準備、飛行実施、飛行終了の三段階に分ける事が出来ます。

@飛行準備の段階

 運航管理者は担当便が決まると出発地、目的地、代替空港、飛行路線の航空情報や気象情報、使用機材の整備状況、旅客、貨物に関する情報、航空管制や適用法規に関する情報などを入念に検討し飛行計画を作成します。

 

A飛行実施の段階

 運航管理者は機長を含む乗員に飛行計画を説明し合意に至ると両者が署名して飛行計画が正式に承認されるのです。 もし、安全性に疑義のある場合はより安全な意見を採用します。 出発後、飛行計画の内容に変更や付加情報があれば直ちに連絡し、また機長からの連絡や要請に対し的確に対応しなければなりません。

 また、運航管理者は、それぞれの担当区域内を飛行中の航空機から位置通報を入手し飛行経路、飛行高度、消費燃料は飛行計画通りか、航路上や目的地、代替空港、緊急着陸空港の気象、航空情報に変化はないか、また飛行中の航空機の機体、エンジン、計器の故障や異常はないか、ハイジャックや旅客に病人、怪我人の発生はないかなど常に飛行看視をおこなって異常事態の対応に備えています。

 

B飛行終了の段階

 到着後機長から機材情報や気象情報などの報告を受け問題があれば関係部門に連絡し解決します。

3.運航管理者になるには

 運航管理者の資格は、パイロットや航空整備士と同じように航空法で定められており、運航管理者になるには、実務で2年以上の経験を積んで、国家試験を受けます。試験は学科試験と実地試験に分かれています。 学科試験は航空工学、航空保安施設、通信、気象、空中航法、法規の6科目で、実地試験は試験官と一対一で1日がかりで、仮想便の運航管理に関して、天気図の解析、飛行計画の作成や変更、緊急事態への対応など、航空機の運航支援業務全般についておこなわれます。 国家資格取得後、アシスタントとして運航管理者の補佐をしながら経験を積み、更に社内審査に合格してから初めて航空会社の運航管理者に任命されます。 正式に任命を受けてからでないと、飛行計画に機長とともに署名する事は出来ません。

4.これからの運航管理者

 航空運送事業は本質的にサービス業であり、社会に対する奉仕を通じ社会に貢献するという事を忘れてはなりません。 運航業務に携わる運航管理者をはじめとする地上運航従事者は航空会社の基本命題である『安全を確保する』『定時性を守る』『快適性を維持向上させる』ことを常に念頭に置き、運航にかかわる情報センターとしての役割を良く自覚し、日進月歩の技術革新に遅れをとることなく日々研鎌に務め、運航乗務員や社内、社外の関係部門から全幅の信頼を得る事の出来る日常の言葉や行動にバランスのとれた立派な社会人であることが必要なのです。

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第34号 平成16年12月1日発行

「欧州小旅行」

顧問 渡辺 勇

 もう40年位昔、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグなどいわゆるべネルックス3国を列車で旅行した事がある。 ヨーロッパ大陸にはドイツ、フランス、イタリーなどを始め大小様々な国が存在し、それぞれの言語、文化、宗教に基づく古い伝統と習慣がある。 その中を走る国際列車は様々な国籍の人々を乗せて走る。 欧州大陸では英語がなかなか通じない。 たまたま同席した青年はオランダの船会社のナビゲーターで英語が話せた。 私も航空会社のナビゲーターであった事から名刺を交換した。 後に彼はエジプトのアレキサンドリア港から絵葉書を送ってくれた。

 今はユーロの時代だが、当時は国境を通過するとお金が変わり、言葉も変わる。列車が国境近くにさしかかると、マネーチェンジャーがカバンを抱えて車内にやって来る。 そして今までのお金を次の国のお金に替えてくれる。 だからオランダ、ベルギー、ルクセンブルグなどを通過する時は忙しい。 オランダはギルダー、ベルギーはフラン、ルクセンブルグもフランだがフランスのフランとは異なりレートも違う。

 オランダは海面より低い国である。幅200m位の長大な堤防で国を守っている。 子供が石を水に投げる遊びはこの国にはない。 大事な石なのである。 坂がないので自転車が多いのは有名である。 運河が多いので自動車で運河に落ちた場合を想定した脱出訓練が行われている。 また犬を連れて歩く人が多いが糞はそのままである。 誰かが「ケンプン通り」と呼んでいた。 日本の道路のほうがずっときれいだ。

 アムステルダムの駅では駅員が座席まで手荷物を運んでくれた。 しかしなかなか立ち去らないで立っている。 ああそうかチップをやらなければいけないのか。

 ベルギーのブラッセルでは小便小僧は有名だが、郊外のワーテルローの戦場跡を観光バスで見物した。 ナポレオンとウェリントンの大軍が19世紀初め戦った壮大な騎馬戦の模様が大きなパノラマになっていて見ごたえがある。 観光バスの運ちゃんは土産物屋で腹ごしらえしている。 客が買物するから店のおごりだろう。

 アムステルダムに2泊、ブラッセルに1泊した後、ルクセンブルグに向かった。 ルクセンブルグは王国でオランダ、ベルギーなどと違い起伏の多い国である。 国の名前も首府の名前もルクセンブルグである。 駅前で絵葉書を買った。 売り子の少女が「メルシー」というので「あなた方はフランス語を話すのか」と聞いたら「ルクセンブルグ語です」と答えた。 当然のことである。 半日街を見物して夜行列車に乗る。 この夜行列車の行き先は忘れたが私の目的地はハンブルグである。 夜遅くルクセンブルグを出発した。 この列車で何時間か後、ドイツのコブレンツという駅で乗り替えなければならない。

 コブレンツに着いたのは深夜である。 プラットフォームには人影はない。コブレンツというのは東西ドイツの頃の西ドイツの首府ボンの南にあるライン河畔の小さな市である。 ここでハンブルグ行きの列車を待つ。 ここはドイツ領なのに私の財布にはドイツマルクがない。 思案したあげく列車の食堂車のボーイならば換金出来るだろうと思いついた。 国際列車の食堂ならば色々な通貨を扱うだろう。 そこで今降りた列車の食堂車に入りボーイに換金を依頼したところ即座に応じてくれた。 辛うじてマルクを幾らか手に入れる事ができた。 深夜のコブレンツ駅でほっとしたものである。 駅のドイツ語のアナウンスも何となく分かる様になった。 やがてハンブルグ行きの列車が来る筈である。 明日の昼前にはハンブルグに着くだろう。

 今は共通通貨ユーロの時代、ヨーロッパ何処へ行っても同じお金で用が足りる。随分便利になったろうと思う。(2008年8月記)

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第33号 平成16年6月1日発行

「モスクワの夏」

顧問 渡辺 勇

 1967年、日ソ共同運航が始まり、シベリアの上空経由でモスクワヘ飛ぶようになった。 機材はソ連製のTU−114というジェットプロップ機でアエロフロート側が提供した。 4枚のプロペラが二重についていて逆方向に回転する変わったタイプである。 今は見かけない。 もともと長距離爆撃機を改装したものである。 コクピットは5人のクルー(機長、副操縦士、航空士、機関士、通信士)と日本人1人(オブザーバー)キャビンはソ連人のほかに、日航側からパーサー1人、スチュワデス2人が乗務した。 乗客は120人位でスピードは今のジェット機より遅いが航続時間はかなり長かった。

 7月のある日羽田を飛び立った。 午前11時に羽田を出発すると、時差の関係で現地時間でその日の午後4時頃モスクワのシェレメチポ空港に到着する。 10時間のフライトである。 言葉は通じないが、通信士は英語が分かる。 意思の疎通は専らこの通信士を仲介にした。

 緯度の高いシベリアは夏は殆ど夜がない。 パイロットは地上とロシア語で交信しているが、通信士は短波で長距離通信をやっている。 航空士席は飛行機のノーズの方にあり、パイロットの足の下になる。 先端が風防ガラスになっているので、偏流を計ったり針路を修正したりするのだろう。 正に爆撃機である。 10時間後のシェレメチポ空港はまだ昼まっさかりである。

 モスクワでは赤の広場の近くのメトロポールというホテルに宿舎した。 まだ外は明るいが、日本時間では深夜である。とりあえず何か軽く食べて休もうと思いホテルのレストランに入った。 ところがなかなかサービスが現れない。 やっとメニューらしきものを持ってきたウエイトレスはさっさと置いたきりまた現れない。 10時間以上のフライトで疲れているので眠くなってきた。 時間を持て余していた時、顔見知りのモスクワ支店長の福井氏が偶然現れた。 やあやあというわけで同席して話し込んだ。 私は「福井さん聞いてくれ」とばかりここでもう40分も持たされているのだ。 何とかならないかというと、福井氏曰く「それは渡辺さん感謝しなければならない事ですよ。 みんな表で行列して待っているのです。 渡辺さんをこの暖かい所に40分も置いてくれた事は大変なサービスなのですよ」と。

 これはほんの一例で、すべて考え方が違う事をその後度々経験した。 夏は空気が渇いて水を飲みたくなる。 街には水売り機があり一杯5カペイク(20円位)で飲める。 一つのコップで回し飲みである。「日本には水は売っているか」と聞く。 只で飲めるから「こんな水売り機はない」というと「そうか、日本は水も売ってないのか」となる。

 5カペイクというのは地下鉄、バスなど一律の値段だった。 女性の運転手も全く男性と同様に働いている。 勲章をつけるのが好きらしく、街を歩くとやたらと胸にぶら下げているのを見かける。 アエロフロートのスチュアデスのナターシャは3人の子持ちとか。 外国へ行って消えていなくなっては困るので人質の意味もあるとか。 日本に行って買ってくるのは秋葉原の電気製品よりも白いパンだとか。 色々な話を聞いた。 ルーブルの価値が極端に下落した今はどうなっているのか。 自国の通貨より外貨の方が貴重で、外貨(ドル、ポンド、フラン、マルク、円)専用の外国製品のみを売るベリオスカというのがあり、ルーブルでは買えない品物がいっぱいある。 但し値段はルーブルで表示してある。 これを外貨に換算して売る。 釣り銭は外貨を適当に交ぜてくれる。 後でホテルヘ帰って換算してみるとちゃんと合っている。 ソ連には特有のそろばんがあり、大きな玉を縦に使っていた。 縦書きの中国や日本のそろばんが横なのに横書きのソ連のそろばんが縦なのが面白い。 モスクワヘ行く時はトイレットペーパーや石鹸を荷物の中にいれて行った。 雨が降ったら大事な靴を脱いで歩いた人達、今はそんな事はないだろう。

 地下鉄は世界一といわれる程立派である。 駅の一つ一つに立派な彫刻があり、宮殿のようである。あまり立派なのでカメラを向けたら女の駅長さんに制止された。 防空壕を兼ねているとかで誠に深い。 エスカレーターの両壁は真っ白でポスター広告の類は全くない。 ロンドンの地下鉄と好対象である。 ロンドンのは両壁がコマーシャルポスターで一杯である。 それとロンドンのは歴史が古く木製のエスカレターもあった。 ある時、火事があり、この木製のエスカレーターが燃えて困ったという事があった。 話が脱線したが、モスクワは或はソ連はすべてが非能率的である。 ご機嫌を損ねたら大変である。 ポケットティッシューの一つもやればすごく受けがよくなる。 夜中に懐中電灯を持って部屋を点検に来たりしたが今はそんな事はないだろう。 部屋のラジオは接触不良で鳴らないし、風呂の湯の出る具合も良くない。 テレビは航空ショーなどを流していた。

 色々な思い出があるが、ロシア人というのは一般に純朴である。 スターリンは独裁者として圧政をしいたので一度はクレムリンの赤の広場に像を立てられたが後に撤去された。 赤の広場はかつて西ドイツの青年が小型機で着陸した事件があったがそれ程広い。 レーニン廟がありモスクワ名所で、ソ連の各地からおのぼりさんが集まる。レーニン廟は長蛇の列をなしていた。 2時間は並ぱないと見られないというので見るのはやめた。 ヤミでドルを買おうとする男が近寄って来る。 決して相手にしてはいけないといわれた。 広場前にはグム(百貨店)があるが目ぼしい品物は並んでいない。宇宙開発等でアメリカと並ぶ高度の技術力を持つソ連の民衆がどうしてこんなに貧しいのか、いまだに理解できない。

 以上はいずれも30年以上も前の独裁体制下時代のソ連のことなので、ペレストロイカで政治が変わり、自由世界と交流が開けた今日、随分変わったろうと思う。(2004年4月)

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 第31号 平成15年4月29日発行

「コペンハーゲンの夜」

副団長 渡辺 勇

 1961年(昭和36年)、ジェット機DC−8導入の翌年、日本航空は北極経由の欧州線を開始した。 目的地はコペンハーゲン経由ロンドン、パリ行きである。 当時シベリア経由は認められず、アンカレジ経由でヨーロッパヘ行くのが最短距離であった。

 私は最初の頃からこの線に乗務した。 何しろ磁気コンパスの全く使えない航路である。 グリッド・ナビゲーションという独特の航法を用いた。 片道9時間近く、特別の地図と航法により、アラスカとヨーロッパ間を飛んだ。 詳しい事を述べるのは避けるが、当時としては画期的な航法であった。 150回くらい飛んだだろう。

 所で、アラスカとヨーロッパ間の時差は11時間ある。午前アンカレジを出発して9時間飛ぶと、身体は夕方である。 コペンハーゲンに着いて、空港からホテルに入り、荷物をほどくとビールの一杯も飲みたくなる。 ところがコペンハーゲンは夜が明けたばかりで、パンとコーヒーのサービスしかない。

 まあとにかく疲れているのだから一休みする。 ひと眠りして街へ出てみる。 夏は明るい日差しで、日が長くデンマーク人は太陽を全身で浴びている感じだ。 しかし冬はどんよりした雲におおわれて日も短く暗い感じである。 彼等が太陽を大切にし、夏至の日を祝日にする気持ちが分かる。 夏の夜は10時過ぎまで明るい。 朝は3時には夜が明ける。 逆に冬は午前9時過ぎまで暗いし、3時には日が暮れる。 私達は身体を適応させるのに色々苦労した。 食事はアメリカと違い24時間オープンの店がない。 昼間寝てしまうと夜半に目が覚める。 腹が減る。街に出ても食事が出来ない。 そこで昼の内にデンマーク特有のオープンサンドというのを買っておく。 これとジュースかビールがあれば、夜中に目が覚めても大丈夫というわけだ。 これを枕元へ置いておけば、安心して眠れる。 こんな事を繰り返して北極線を往復したものだ。

 コペンハーゲンは北欧のパリと呼ばれる美しい街である。 「商人の港」というのが街の名前の由来である。 世界三大漁場を控えているだけに魚料理が多い。 九州くらいの面積だがデンマークは殆ど平地であるため耕地面積が広く、牧場も多い。 従って乳製品も多く、この点オランダと似ている。 自転車が多いのもオランダと同様である。 長い冬の間、不足した太陽熱を吸収すべく、夏は全身で日光浴をしている姿がよく見られる。

 街の中心部にティヴォリという公園があり、冬はクローズしているが、夏になるとオープンする。 入園料をとるが昼は安く、夜になると高くなる。 色々見せ物や舞台が出て賑やかだ。 市民は夏の夜を十分に楽しむ。 私も蚤のサーカスというのを見た。 「ノミのサーカス」と大きな声をだして客を呼び込んでいた。 真夜中の12時に花火が上がって終わりになるが、間も無く午前2時頃には空が白んでくる。

 北欧は暖房はあるが冷房はない。 夏でも半袖になることはない。 北欧と言わずヨーロッッパは旅行するなら夏が良い。 それとキリスト教のお祭り、クリスマスとイースターは避けた方がよい。

 デンマークという国には王室があり、この王室とタイの王室が大変親密な関係にあることは意外と知られていない。

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 第30号 平成14年12月1日発行

「はじめてのアメリ力」

副団長 渡辺 勇

 1954年(昭和29年)2月、もう間もなく50年になろうとしている。 日航の最初の国際線が夜9時半、アメリカ、サンフランシスコヘ向けて羽田を飛び立った。(ウエーキ島、ホノルル経由)。 当初は週2便であった。

 機種はDC−6Bというプロペラ機である。 客席は54席だったと記憶している。 当初コクピット乗員はパイロット3、航空士2、機関士2の7名、客室乗員はパーサー1、スチュアデス3という編成でホノルルで客室乗員は交替したが、コクピット乗員はサンフランシスコまでぶっ通しであった。 パイロットはアメリカ人、航空士、機関士は日本人とアメリカ人でコクピットは広く、3人がバンク(寝台)で交替で仮眠をとることができた。

 

 夜9時半羽田を離陸、3200km東南の太平洋上のウエーキ島まで約7時間、ウエーキ島は熱帯の珊瑚礁の無人島で標高2メートル、太平洋上の中継基地として一本の滑走路が東西に走る。 冬などは寒帯から一気に熱帯に入る。 うまい所に具合の良い島があったものだ。 この島がなければ、当時の飛行機では一気にハワイまで飛べなかった。 ここで給油等で約1時間後、次の目的地ホノルルヘ向かう。 灼熱のウエーキ島を離陸して真東に向かう。 赤道近辺の空は積乱雲がそびえたつ。 今のジェット機ならば、楽々とその上を飛べるが、当時のプロペラ機はそんなに高度がとれない。 気象レーダーが無かった当時は夜間などこの雲を避けるのが一苦労だった。 月の無い夜間飛行など随分苦労した。 東へ向かって飛ぶときは夜明けも日没も早い。 8時間半後、椰子の葉繁るホノルルヘ到着するのは日没後である。 南国の花の香りがする。 羽田を出発して17時間位経過している。 コクピットの乗員は仮眠を取りながら交替で勤務する。 ホノルルはアメリカヘの玄関である。 税関、入国審査、検疫(これをCIQという)を通過しなければならない。 乗員も乗客も同じである。 これが結構手間どり、サンフランシスコヘ向けて飛び立つのは夜かなり遅くなってからである。 その頃になると、もうかなり疲れていて、足がまともに地面を捉えていなかったような記憶がある。 南国の果物を御馳走になったが味を覚えていない。

 ホノルルからサンフランシスコまでは約9時間、途中北緯30度、西経140度の洋上にはコーストガードの船(ノベンバーといった)が電波を出していてくれる。 依頼すればレーダーで船からの方位を飛行機に知らせてくれる。 かつてパンナム機がこの近辺で海上不時着水した事があった。 この時はこのノベンバーが活躍し、全員救助されて大ニュースになったことがある。

 東の空が明け始め、カリフォルニアの沿岸が近付いてきた。 アメリカ人の乗員は、我が家に帰れる時間が迫ってきて、口笛を吹いてうきうきしてくる。 私は初めてのアメリカに胸を弾ませている。 サンフランシスコの特徴はあのゴールデンゲートブリッジである。 雲の上に赤い橋桁を高く伸ばしている。 午前10時頃、サンフランシスコ空港の滑走路に着陸、カリフォルニアのすがすがしい空気の中に降り立つ。 羽田を出て29時間である。 アメリカと日本の間が随分近くなったものだと思ったものだった。

 坂の町サンフランシスコ、整然とした街並み、古風な木製のケーブルカーが走る。 2月というのに暖かい。 これは海流の影響で、後に8月の夜など霧が出て、意外と寒いことを知る。

 百の人種と百の言語と百の宗教が入り混じったアメリカ、町を歩いている人は皮膚の色顔付きは違っても皆アメリカ人である。 ユニオンスクウェア近くのドレークウイルシェアホテルの1203号室に入り、制服を着替えて町へ出てみる。 きれいな歩道を歩いて行くと、私に道を聞く老婆がいる。 今日本からアメリカに着いたばかりの人間に何で道など聞くんだといっても、それはこちらの言い分で、彼女にとっては誰でもアメリカ人なのだ。 町のメーンストリートであるマーケットストリートでジャケットを着てネクタイを締め、帽子をかぶったジェントルマンから「今朝まだコーヒーを飲んでない、25セントくれ」と手を出された時は面喰らった。

 物を買うとタックスがつく事にも、最初はまごついた。 消費税である。1ドル99セントだから2ドルで釣が貰えると思うが、税金がついて2ドル3セント位になる。 食事した時も同じでその他にチップが要る。

 最初、アメリカで驚いた事3つ。

 1、1ドル紙幣を入れるとコイン(5セント、10セント、25セント)がぞろぞろと出てくる器械がある。

 2、ドアの前に立つと自動でドアが開く。

 3、トイレで、ボタンを押すと熱風が出てきて手を乾かしてくれる。

 今どきのこんな事で驚く日本人はいない。敗戦後8年半、初めてのアメリカでたまげた事が懐かしい。

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 第30号 平成14年12月1日発行

「パラ・グライダーで空を飛ぼう!!」

理事 渋谷保男

 

 航空少年団本部主催の航空教室が9月21、22及び23日、2泊3日の行事で、静岡県富士宮市、富士山山麓 朝霧高原において全国からの団員約30名(幹部団員または幹部団員候補生 最高年齢38歳、最小年齢15歳)と支援役員25名、実技指導講師たち10名ほどで山(段丘)の斜面を駆け下りながらパラ‐グライダーを開いて、飛び上がる「空中操作法」を目的としたパラーグライダーの実技訓練をしました。
 参加者のなかには、すでにパラーグライダーで飛んだ経験者も2、3いましたが大部分の人たちは初心者でした。 私もパラグライダーは初心者です。(14歳頃、20人で一組になりゴム索でパチンコのように弾き飛ばす初級グライダー:文部省型プライマリーで高度3メートルほどの直線滑空は20回ばかり、当時の通信省航空局古河航空機乗員養成所の体育訓練場や飛行場で行ったことはあつたが、平地からの飛び上がり・離陸と平地への着陸であった。)山の斜面を利用して斜面にひろげたグライダーを引っ張って斜面を駆け下りながらグライダーを空中に立ち上げ開き、離陸するやり方は初めて経験することでした。


 人間が最初に空を飛んだのは今から丁度百年まえの1903年のアメリカ人ライト兄弟ですが、それよりも約10年ほど前に動力のないグライダーによって、人力だけで空を飛んだ人がいます。 そのグライダーを作つたドイツ人はオットー・リリエンタールです。 この人は柳のえだを良く乾かして、おおきな曲率半径に曲げて、ちょうど、蝙蝠傘のようにうすい布を貼り布目から空気が逃げないように塗料を塗って作った精円形状の翼に人の身体が通れるほどの穴を開け、そこにすわって操縦している絵を見たことがあることと思います。 浮力が一枚翼では小さいので二枚翼(複葉)としています。 リリエンタールは山(丘陵)から風の力を利用して,駆け下りながら離陸したのです。 これは、いまではハング・グライダーの離陸方法と同じやり方ですが、いまの三角形のハンググライダーはリリエンタールの精円型グライダーよりも重さが軽くなつているので離陸は楽なようです。

 浮力が翼に発生する原理は理科のうちで物理の分野 それも流体力学と言う ながれる物体の運動の力とか方向とか大きさなどを模型で実験して、数量で表すと言つた面倒なことなのですが 小学生の4年生向きに説明すると 翼の断面は大きな円を切り取つたと考えて、これを 弧(コ)「英語ではArch アーチ、ラテン語で弓のこと、弓の競技はアーチェリー」と言いますが 弧の上側「凸」となつている翼の上面をながれる空気の速度(風の速さ)は翼の下面を流れる風のはやさよりもやや速いのです。 いま 同じ速さの風に向かって或る決まった長さ(1メートルとか0.1メートルなど 1のつく数字のほうがあとで計算するとき楽になる)の翼幅の翼を風の中で支えることにします。 翼を進行方向より5° ばかり傾けると速度差は大きくなります。 次は10°傾ける。 このように角度5度づつ増してゆき、30度〜45度あたりで同じ速度の風のなかでは翼が震るえ出したり、きゅうに下に落ちてしまいます。このことを失速といいます。 翼の上面に「渦」が起きるためなのです。

 

 翼の正面からくる風に対しての角度を「迎え角」といい、翼が上昇するのにもっともよくあう角度があるのですが。 それは翼断面の翼型によっていろいろな もっともよい上昇力が得られます。 パラグライダーでは空に立ち上がったパラシュートのことを「キャノピー」と呼びます。 キャノピー前縁の小穴から風による空気が入つて小さく区分けした小骨(リブ)によって作られた翼型ができていますので、そのまま走り出すとキャノピーに揚力が発生して操縦者の体が空中に浮かび上がりはじめます。 体重の小さい人ならば重力が小さいので、走る速さはのろくても すぐに空中に浮かび始めます。

 
 飛行機には尾翼がついていて飛行中の方向や上昇、下降という運動機能や飛行中の機体の安定性をコントロール働きをしていますがパラグライダーには尾翼はない。 しかし、飛行中の上下左右の安定を決める舵の役目は操縦者の体重なのです。

 キャノピーは合成樹脂の繊維で織った布製で、骨組み「フレーム」が無いので、強い風がふけば金属や炭素繊維のパイプで作られている翼よりも、安定については影響を受けることが大きいが、人が振り子のようにぶら下がることによって、翼型が安定して決まるし、翼としての機能が生じてくる。

 キャノピー付け終わってからなだらかな「傾斜角度が5度から10度ほど」斜面で、風速3メートルから5メートルほどの風に正対「真正面から風を受けること」して、プレークコード(キャノピーを操作するするひも)を両手で縄跳びのように持つて2、3歩歩き始めると、急に腕に上のほうに引っ張られるような力を感じる。 キャノピーが大きく開いたためである。 すぐにインストラクター「教官」が抑えてくれるから安心してよい。

 
 そして、そのまま「走れ」と指示されるから走り出すと、フワッと体が浮かび上がる。
 時速は20キロメトールほどかな「自転車の普通の速度」。 初心者は高度1メートル直線滑空からはじまる。 高度が5メートル以上になると、旋回の方法をはじめることになるが、教官「インストラクター」つきである。

 

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第28号 平成13年11月30日

おとぎの国デンマーク

理事 前田みなほ

 2000年7月からホテルの調査員としてこの1年の間に5回デンマークヘ出掛けました。

 全部で10週間ぐらい滞在したことになるてしょうか。 その間にデンマーク中のホテルを訪問して来ました。 デンマークは北欧にあり、ノルウェー、スヱーデンとあわせてスカンディナビア三国と呼ばれています。 ドイツから北にのびるユラン(ユトラント)半島と450もの島々からなる小さなおとぎの国です。

 「ピノキオ」、「親指姫」、「人魚姫」、「マッチ売りの少女」等を書いた童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンと言えば誰てもおわかりでしょう。 そしてコペンハーゲンには「人魚姫の像」が約90年間海を見つめて座っています。 いたずらで腕や首を切断されたことかあります。 とても悲しくそのニュースを聞いたことを思い出しますが、すっかり修理されていつもこの町を訪れる観先客の人気者となっています。 私が最初にこの像を見たのは37年前のことです。 これで4回見たことになったのでしょう。 日光の東照宮にある「みざる・いわざる・きかざる」の猿の彫刻像やシンガポールの「マーライオン」と同じように想像しているものよりずっと小さな姿です。

 団員のみなさんはきっと小さなころおもちゃの「レゴ」で遊ばれたことかあると思います。 あの「レゴ」はデンマーク生まれなのです。 子供がとても大切にされる国なので人の多く集まる場所には、たとえば空港・ホテル等に子供たちの遊べる場所があって、そこには必ずあのカラフルな「レゴ」のコーナーがあります。 そこでは子供たちが夢中になって遊んているのがよく見られます。 デンマーク人に「レゴで遊んだことがありますか?」とたずねると「今でも子供の時のものを持っていますよ。」という返事がかえってきます。

 デンマークの真ん中ぐらいの位置に「レゴランド」というテーマパークがあります。 丁度私たちがディズニーランドに行く様に多くの人達が訪れます。公園中が「レゴ」で作られたものです。お城・ホテル・工場・駅・空港・車・船・飛行機・人・動物等が全て「レゴ」で組み立てられているのです。町並・船の行き交う港・飛行機の運行する空港・電車の走る町・動物たちのいる自然・花の咲く公園といった風景がミニチュアに構成されています。

【レゴランドという

テーマパーク】

【コペンハーゲンのホテルの一室

(スタッフと共に)】

 赤・黄・青・緑の彩りが美しく感動します。 もちろんさまざまな「レゴ」を売っている店やレストラン、そして博物館などもあります。 デンマークの国内からばかりでなく世界中から多くの人々が家族・グループで集まってきていてにぎわっています。

 「レゴランド」の近くにはホテルがあるので、私はその調査のためにこの町をたずねました。 あるホテルでは、子供たちが自分の泊まっている部屋がわからなくなって迷子にならないように、客室には番号だけてなく「マーク」がついていました。 室の入り口とカードキーの両方に「レゴ」のキャラククーの同じ絵がついているので字が読めなくても大丈夫なのです。とても優しい心くばりで感動しました。このようなことはこの国のホテルを訪ねていくつも経験しました。 車椅子で不便がないように大きなドアと段差のない客室と浴室。 目の不自由な方のために館内が点字の標識で歩けるように壁に工夫。 美と機能を兼ね備えたデザインはこの国の最も得意とするところです。

 デンマークは島国ですから「移動はどうするのか」と疑問に思われるかもしれません。でも心配は要らないのてす。電車がほとんどの都市を結んでいて、島と島には橋がかけられていますのてどこへでも簡単に行けます。 2000年春にオースレン大橋が開通したのでコペンハーゲンからスウェーデンのマルメまで電車で35分で行けるようになりました。 橋のないところではフェリーで行き来します。 バスは大変便利で電車と交互に発車して細かく停車します。 切符は共通でどちらにでも利用できるのです。 ベビーカーでそのまま乗り込めますし、自転車は運転手がバスの後ろの荷台に積んでくれるのです。 飛行機を利用するのはJRの新幹線と同じような感覚です。

 道路は発達していますから車でどこへでも行けますが、もうひとつ有効な交通手段は自転車です。 道路には車道と徒歩の間に自転車走行用の専用レーンがあります。郊外に行くと車とはぼ平行して林の中を安全快適に走れるようになっています。 自転車が良く利用されるのには、この国の地形が大いに関係していると思います。 デンマークのアルプスは標高178mと聞きました。 坂がほとんどない平らな道が続いているので、国中を他のエネルギーに頼る事なく乗る人の体力だけでスイスイと走り回れます。 そしてそのまま電車やバスが運んでくれるのですからこんなに素晴らしい交通手段を使わないてはありません。

 私も時々、貸自転車で仕事に出掛けました。 日本人のおばさんがスーツ姿で後ろのカゴに荷物をのせて走るのですから、とてもおもしろかったのでしょう。 道路の向こう側を走る人に 「ハイ・ハイ」とよく声をかけられました。

 そして訪ねた先で「鍵がうまくかからないけど大丈夫かしら?」と聞くと「もし取るのだったらもっと上等のにする」など冗談でからかわれたりしたこともありました。 そこがそれほど安全なところであるとも言えることです。

 そんなに素晴らしい自転車にも「落とし穴」?がありました。 実はデンマークは「風の国」でもあったのです。 そういえば国中に数千基稼働している「ウインドミル」で発電をしているのです。 畑の中に高々とクルクル回るウインドミル(風車)は乗り物の窓から良く見るのどかで美しい風景てした。 風力発電で多くの電力がまかなえるということは、それほど風が強いということです。そして高い山がなく平らな地形は、此から南へ西から東へと風は遮られることなしに吹きまくるのです。 それはもう大変なものです。 さっそうと自転車に乗って出掛け「何と良い天気で」等とスイスイ走って何kmも行って帰り道に折り返したところ「さあ大変」ということ何度なったことでしょう。

 追い風で行きはよいよいて帰りは向かい風になって、いくらペダルをこいでも少しも進まなくなったのです。 飛行機の離発着ではないにですから、向かい風は本当に困り者でした。 そこに空が曇って来て何やら稲光がほえたりしたり、フェリー出る時間が追っていたりしたら「こんなところまで来てしまったか」と後悔しました。 一度は本当に延々と続く畑の中で突然の雷雨にあい逃げ込むところもなく自転車に捕まったまま立ち尽くして、全くの「ぬれねずみ」なってしまいました。

 北欧の夏と言えば「白夜」です。 私たちは6月に「夏至」、12月に「冬至」で一日の長さが変化していることを感じられますが、北欧ではそれがもっと極端になるのです。 夏には日がなかなか沈みません。 夜10時を過ぎてもまだ明るくて、やっと西に日が落ちた途端にすぐ日が明けるのです。 夜の時間が北に行けば行くほど短くなるのです。 冬は全く逆にいつまでも日が出ません。 そしてすぐに暗くなるのです。 太陽を見ることがほとんど無い暗い日が続くことになります。 デンマークは北欧の中では南に位置するので、全く日が沈まなかったり、一日中真っ暗とまではいきませんが、一年の中で一日の長さの変化は非常に大きいのです。

 それが幸いな時と悩みになる時とがあります。 私が夏の間によくやってしまった失敗は、「まだ昼間だから」と書類書きに夢中になってしまい時間を忘れてしまったのです。 暗くなったので食事に出掛けたのですが「もうキッチンが閉まりました。」とどこのレストランでも断られてしまったのです。 何と既に11時を過ぎていたのです。

 朝はカーテンの間からの光と鳥の声で目が覚めて、すっかり起きて身支度をしてしまった後に4時前であったことに気づいたりと・・・・・。 そんな日は大変です。 午後には眠くなってしまいますから。

 夏は夜明けが早いために実際にあわせるために、多くの国で「夏時間」が使われています。 春から秋までは時計を1時間進めて生活するのです。 私が子供のころに日本でも一時これを取り入れたことがありました。

 コリングという町でのことてす。 ある朝、早い電車に乗るため大慌てでに駅へ行きました。 切符を買うのに発車の時間が追っているので、のんびりとしている駅員にいらだちを感じていました。 それにしても誰も急いている人を見かけないので「列車は遅れているのですか」と間きました。 「昨日で夏時間が終わり、今日から1時間時計を遅らせてあります。

 みんなが間違わないように張り紙をしてあるでしょう。」と指さされました。 そういえばホテルや店で張り紙を見ました。 あいにくデンマーク語が苦手な私には何のことか解らなかったのです。 1時間駅でゆっくりとして出掛けました。反対に春で1時間早くする日にであっていたら列車には間に合わなかったのだからと自分をなぐさめました。

 旅行をしているといろいろなことを経験します。 ずっと一人での行動ですから気をつけることがたくさんありはしましたが、どちらかというと出会った方々に優しくされたり 肋けていただいたりの方がはるかに多かったと思います。

 いつも重い荷物を持ち歩いているので駅にエスカレーターかエレベーターがない時は、それはそれは大変な思いをします。 降りたホームから通りまで一緒に運んでくださったお嬢さん。 バスから降りてスーツケースを運び込んだ運転手さん。 「持ち歩くのは大変でしょう」と仕事が終わって帰るまで荷物を預かってくださった観光案内所の方々。 道をたずねたら「知り合いなので」とそこまで車で連れて行ってくださったホテルのオーナー。 数え上げると何人になるでしょうか。

 本当に多くの方々の善意に支えられての1年でした。出会った方々一人一人に感謝の言葉を申し上げたいと思います。

 心を込めてお礼をデンマーク語で“タック”

 またお会いした時には、やはり「こんにちは」は“ハイ グ ディ”

 読んでくださって“タック”

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第28号 平成13年11月30日

ニューヨークに居た頃

理事 新井典郎

 今年 9月11日 同時多発テロで、ニューヨーク マンハッタン南部にあったワールドトレードセンター ビルが自爆攻撃にさらされ、地上110階、高さ411mの銀色に輝いたツインタワーが瞬時のうちに崩壊してしまいました。 ボストン発西海岸行きのB‐767 2機が満タンの燃料を積んだままビル中央側面に激突し、大火災とその高温のため、上層部が飴のように解け、その重さでビル全体が崩れ落ちたのです。この様子を映したテレビを見ていると、まるでSF映画のようでとても、現実のものとは思われませんでした。一連の事故で失われた数千人の命や莫大な財産を考えるとこの悪魔のような仕業を引き起こしたテロ集団は絶対許せない、そしてなんとしてでもこの世から抹殺しなければなりません。犠牲になった方々やその家族のことを思うと激しい胸の痛みを感じ、同時にアメリカ国民の悲しみ、怒りは いかばかりかと同情の念を禁じ得ません。 私はこのワールドトレードセンターが出来てまもなくの頃、JALのニューヨーク駐在員としてJFK(ジョン・エフ・ケネデイ)国際空港で、働いていました。

 当時のアメリカはベトナム戦争の後遺症で国全体が疲れて、人々の心もかなり荒れた雰囲気が漂っておりましたが、伝統のヤンキー魂は健在で日々繁栄に向かって前進するエネルギーや活力には圧倒される思いがしました。 そしてその象徴があのツインタワーだったのです。

 私が家族と共に住んでいたアパートは空港に近いクイーンズ地区のキューガーデンにありましたが、二重苦を克服したヘレン・ケラー女史の生家やUSオープンテニスの行われる公園、ニューヨーク・メッツのホームグランドの「シェアスタジアム」もすぐ近くでした。

 その頃ホヤホヤのニューヨーカーが見聞きし、経験したことを二、三 紹介したいと思います。

その1. 英語に自信が持てた日

 私が羽田を発ちアラスカのアンカレジを経てニューヨークについたのは暑い8月下旬のことでした。車なしでは一日も生活できないアメリカ社会ではすぐに車を買って免許証を取りに行かねばなりません。(ニューヨーク州では国際免許や他州の免許証は短期間で無効となり、必ずニューヨーク州の試験を受ける必要があります。)試験場に行くと様々な人達で、ごった返しており、中には目を真っ赤に泣き腫らした黒人のオバサンが何人か居ます。不思議に思い、様子をうかがっていると、どうやら英語力か試験勉強が不足して一日に2回まで許される筆記試験にどうしても合格できず、泣いているのでした。試験はちょっと勉強すれば日本の中学1、2年生でも出来る内容なので、アメリカ人でも英語が出来ない人が沢山いるのに驚いた、と同時に、ここ、ニューヨークでは英語がそんなに出来なくてっも大丈夫なんだと変な自信がつきました。

その2.寒いニューヨークの冬

 夏が終わると冬がすぐやってきます。 短い秋の休日、マンハッタンから西のニュージャージ州に渡って、ハドソン川沿いに北へ2時間ほどさかのぼると川の両岸は黄金色の紅葉(?)で息をのむような雄大な自然が続き第2次大戦後、日本を占領した時の連合軍最高司令官であったマッカーサー元帥が「老兵は死なず、ただ 消え去るのみ」と演説した ウェストポイント陸軍士官学校へのドライプは楽しい思い出となつています。 冬のニューヨークはきびしく、時には一月下旬には零下20℃ 近くにもなり同じ日のアンカレッジ(北極圏に近いアラスカの都市)よりも寒くなることもあります。

 猛吹雪で普通ならば20分くらいで行ける空港から家に帰ることが出来ず会社で夜明かししたことも何回かありました。そのような時は道路は通行止めとなり、自動車を運転していた人達は暖房をするためのガソリンがなくなってしまい 何人もの人達が凍死するのです。ですから、寒波来襲の予報があると、車は常に燃料を満タンにして、トランクには毛布、ビスケットなどの非常食、スコップの用意が欠かせません。大雪の後一寸、道をそれると車体が浮いて「亀の子」状態になり車輪が空廻りしてしまうのでスコップで車体の下を掘って毛布を車輪にからませて脱出するのです。フリージング・レイン(氷雨)も恐ろしい事の一つでした。過冷却水滴が車に当った瞬間、氷に変わり、アンテナはみるみるス
テッキ状に太くなり窓ガラスは氷板を張つた様になって、ワイパーはまったく役に立ちません。こんな気象条件に出会ったときはアイスパーンの上での運転と同じでハイウェイのあちこちで車がクルクル廻り追突したり、されたりで本当に命がけでした。

 缶ビールなどは30分位外に出しておくと丸々と膨張して、アルコールのシャーベットになってしまいますが、二重窓の室内は半袖シャッでいられるほどで快適でした。 雪かきも大変です。大雪の後 ガレージから車の走れる通りまでわずか10数メートルの雪かきに半日かかったこともありました。ご存知のようにアメリカでは自宅前の通路で通行人が雪や氷で滑って転び怪我をした場合、その家の責任となり、莫大な賠償問題となるので除雪は真剣です。

その3.ゴキプリ街道

 JFK空港からマンハッタンのダウンタウンまで車で1時間弱を要しますが、空港を出てすぐのハイウェイがヴァンウィック通りで我々はこの通りを「ゴキプリ街道」と呼んでいました。何故、そのような呼び方になったのかというと、 この通りで故障して放置された車を狙う窃盗団が常時巡回していて、修理をするため30分も無人となった車を見つけると、先ず車内のラジオ、計器類、ついでタイヤ、エンジン部品等「アッ」という間にゴキブリが残飯をあさるが如く、解体してしまうのです。2〜3日放置されると大体車体だけと言うのが普通でした。 ある時会社の同僚のアメリカ人がこの道路わきで、車の下に入つてマフラーの修理をしていたら、車の前のボンネットを開いて、部品をはずそうとしている男がいたので、「何をしているんだ?」と言うと「お前はそっちを取れ、俺はこっちだ」としきりに手を動かしています、「馬鹿野郎奴、これは俺の車だ!!」と怒鳴りつけると男は飛んで逃げていったと言う 実話もあったほどです。

NYセントラルパーク

からの眺め

 エキサイテングで緊張を強いる大都市ニューヨーク、世界中で一番すばらしく、また 一番汚らしい人間性を見せてくれたニューヨーク、まだまだ 書きたいことはありますが 今回はこれで終わりにしましょう。

 「同時多発テロ」に続くアフガニスタン戦争、炭そ菌テロなどアメリカを巡る様々な問題が一日も早く解決しニューヨークが更なる発展を続ける様、祈って止みません。

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第25号 平成12年 5月 1日発行

シドニーオリンピックに寄せて

副団長 渡辺 勇

 今年2000年のオリンピックは9月にオーストラリアのシドニーで開かれることは皆さんご存じですね。 1896年ギリシャのアテネで第1回が開かれれて以来27回目になります。(第一時世界大戦により1回、第二次世界大戦により2回中止)

 過去に南半球でのオリンピックは1回あります。 1956年(昭和31年)12月に同じくオーストラリアのメルボルンで開催されました。 つまり南半球でのオリンピックは2回ともオーストラリアなのです。 南半球には南米とかアフリカなどがありますが、これらの国ではまだオリンピックは開かれておりません。 オリンピックの開催地で一番多いのはヨーロッパです。 ロンドン2回、パリ2回、ストックホルム、アントワープ、アムステルダム、ベルリン、ヘルシンキ、ローマ、ミュンヘン、バルセロナなどです。 次いでアメリカが4回、セントルイス、ロサンゼルス2回、アトランタです。アジアでは2回、東京とソウル(韓国)、そしてモントリオール(カナダ)、メキシヨ市(メキシコ)、モスクワ(ソ連)が夏季オリンピックの開催地となりました。 最近では冬季オリンピックなどもありますが、やはリメインは夏季オリンピックで多くの人が関心を持ちます。

 1932年(昭和7年)のロサンゼルスのオリンピックは私が小学生のころでした。 水泳日本のはなやかなりしころで、大活躍したのを覚えています。 当時16才の北村少年が1500メートルで優勝したのが話題になりました。 その北村さんに先年スポーツクラブで話す機会がありました。 当時高知の中学3年生でロサンゼルスヘ出発前に日本で泳いだ記録を、本番では30秒も縮めたと話していたのを思い出します。 横浜からロサンゼルスまで2週間の船旅の間、どうやってトレーニグしていたのでしょう。 この北村さんも数年前亡くなりました。

 1936年ベルリンのオリンピックは私が旧制中学1年の時でした。 夜中に現地から雑音のまじる短波放送で「前畑がんばれ!!」を聞いたときです。 後に「民族の祭典」とか「美の祭典」という記録映画が出来て、これを見て大いに興奮したものです。 その次のオリンピックが1940年(昭和15年)で東京と決まっていました。当時中学の体育の先生が「次はお前たちの出番だぞ」と云った言葉が強く印象に残っておりますが、戦争で中止になりました。 「フジヤマのトビウオ」といわれた水泳の古橋選手は日米水泳大会では大活躍しましたが、オリンピックでの優勝はありませんでした。

 1956年のメルボルンの時は日本航空は特別機を出して選手団を送り込みました。 プロペラ機で、私はDC-4型機でマニラ、ダーウイン経由で片道約30時間かかってメルボルンを2往復しました。 スピードは今のジェット機の3分の1です。 12月ですから真冬の日本から真夏のメルボルンヘ飛んだわけです。 2日ほど泊まりましたので、レスリングや水泳の競技を見るチャンスがあり、レスリングで日本が優勝して日の丸が上がり君が代が吹奏されて感激したものです。 真夏なのにクリスマスセールをやっているのが妙な感じでした。 日曜日が休日でオリンピック競技も休みでした。 これはオリンピック史上初めての事だそうです。 おかげで選手のバッジを借りて市内見物しましたが、電車は只で、子供達が私達のバッジを見て選手と思いサインを求めてきたのが忘れられません。(終)

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第23号 平成11年 5月 1日発行

こくさいせんのはじまり

副団長 渡辺 勇

 昭和26年にそうりつした日本航空は、昭和29年(1954年)、丁度45年まえに国際線を始めました。DC-6Bという、そのころでは最新鋭の飛行機で、羽田からアメリカのサンフランシスコヘ飛ぶようになりました。4つのプロペラエンジンで、客席は54席ありました。スピードは今のジェット機の約半分です。途中、ウエーキ島とホノルルをけいゆしました。航続距離(飛行機の飛べるはんい)の関係で今の飛行機のように長いきょりは飛べなかったのです。

 そして沖縄がまだ日本にもどっていない時だったので、羽田と沖縄の間も国際線でした。

 はじめは週2便でした。夜の9時半に羽田を出発し、約7時間でウエーキ島につきます。ウェーキ島は東京から南東3200kmの洋上にある熱帯のさんごしょうの島です。無人島なのですが太平洋上の通過地点とし大事な所でした。ここで給油したりお客さんに朝食のサービスをした後、ホノルルヘ向けて出発します。夜の8 時ころハワイのホノルル空港につきます。ここではアメリカヘの入国手つづきをします。CIQといって、パスポートを見せたり、手荷物のけんさなどがあります。常夏の島なのであまい花のかおりがしてパイナップルその他おいしいくだものがいっぱいあります。そして真夜中に最後の目的地サンフランシスコへむかいます。サンフランシスコ到着は、現地時間の午前11時ころです。

 羽田を出てサンフランシスコにつくまで、やく30時間ですが、ずいぶんはやくアメリ力につくものだと思ったものです。サンフランシスコは日本の仙台と同じくらいの緯度にありますが、一年中大変気候のよい所です。雲が低いと、有名なゴールデゲイトブリッジの吊り橋の赤い塔が雲の上につき出ているこ
ともあります。そして街には世界一といわれるチャイナタウンや名物のケーブルカーなどがあり、整然とした街なみです。

 今は直行便のジェット機で9 時間くらいでつくことができます。

ホノルル空港で歓迎を受けるDC−6B

 

太平洋線の開設を予告した新聞広告
桑港というのはサンフランシスコのこと

(平成11年2月記)

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第22号 平成10年10月30日発行

鳥の飛びかたを知ろう

−飛行機はなぜ飛ぶことができるのか−

理事 渋谷保男

1.とんぴ、からす など

 1−1.とび(鳶、とんび)

 青空に高く、ゆっくりと大きな円(輸)を描きながら右せんかい、左旋回をはばたきもしないで飛び続けるカラスよりも少しおおきな濃い茶色をしている鳥。 ときどき鳴き声がかすかに「ぴ−、ひょろろ」と聞こえてくる。 とび(とんび とも言う)は川原や海岸近くでよく見かける。 松の木の多い断崖−江ノ島の稚児が淵あたりを集団で飛んでいたことをみかけたが−えさは、ねずみ、さかななど生きているものか、または、新鮮な餌が良いらしい。

 「とんびに油揚げさらわれた。」ということわざがあるくらいだから、脂肪やタンパク質の多いえさが「おこのみ」の様だ。 私が小学生のころは大森の山王や池上の本門寺、久が原、多摩川台公園(田園調布)などの高台にある大きな松の木のこずえに巣があった。 とびは鷲(わし)、鷹(たか)と親戚関係にある。 鳥の分類では、真鳥亜綱:ワシタカ目だからコンドル、イヌワシ、ヘビクイワシそしてトビ。 鳥の目は瞬間にものを判断するするどさがある。

 そして、ワシタカ目のめは望遠鏡のように遠くのえものを探す事が出来る。 羽の幅はいっぱいにひろげると60から100cm(=1m)もあって、羽ばたくとき「ばさっ、ばさっ」と音をたてる。 ワシタカ目の親類で肉食をするフクロウ、ミミズクは羽ばたきしても音を出さない。 夜行性のフクロウたちの羽のならびかたが、ちょっとワシタカとは違っている。 この羽のならびかた(配列)を新幹線列車のパンタグラフにつかって風きり音を消して騒音防止とパンタグラフの風による振動を、防ぐことに利用している。

 とびの尾羽を下から見るとニ等辺三角形をしていて、しっぽのところを底辺とすると内側にゆるくカーブしてへこんでいる。 飛んでいるとき、この三角形の尾羽をゆっくりとねじって方向舵の役目をしたり、急降下するときは急に下にするが急上昇するときは上に曲げる。 木の枝に止まるとき尾羽を大きく広げて下に祈り曲げる。 飛行機ならば垂直尾翼の方向舵、水平尾翼の昇降舵と主翼のフラップの役目をする。 高速で飛ぶつばめの翼は後退角がついていて、尾羽ねは燕尾服と呼ばれるように三角形の底辺にあたるところが深く凹んでいる。(カットの絵をご覧ください。)

1−2.からす(鳥、カラス)

  からすのつばさもとびに似ているが、翼幅がとびの70〜80%ほどでとびより少し小型である。 尾ばねのかたちがオシャモジのように、丸みのある形をしている。 鳴き声は「カー、カー」とか「ガー、ガー]と音量は大きい。 集団で行動することが多い。 鳥のなかでは、知能は高くて学習性があり利口ものである。 しかし、人間から見るとずる賢い。 とくに5月から6月、ヒナの子育ての期間は巣に近づくヒトやイヌ、ネコなどを攻撃する。 くちばしでつっいたり足で蹴ったりする。 これを防ぐには、1mほどの棒、または紙をかたく巻いて棒にみせかけた物を持って、ときどき振り回すとからすは警戒してちかづかない。 からすたちは集団になるときに、指揮者(ボス、リーダー)や見張り役などの階級を決める。 ときどき、空中戦をして順位をきめている。

 朝、東の空があけるころ(夏至のころ:4時ころ、冬至:6時ころ)集団で餌場へ飛んで行く。 しかし、各個バラバラで、編隊飛行はしない。 羽が濡れると、からすは飛べない。 川や池などでカラスの行水(みずあび)をするが、羽をバタ、バタと羽ばたいて、翼を乾かしてからでないと飛ばない。 海鵜などのような水鳥でも陸にあがると、羽を広げているのは乾かして飛行の準備をしていることが多い。 しかし、水鳥はくちばしで尾羽の付け根から分泌する油脂をくちばしにつけて、羽を拭いて手入れをする。

2.つばさ(翼)

 鳥とほ乳類−陸上にいる獣とか人間、さるなど−を比べると、前足がつばさに変わっている。 翼には、風きり羽とよぶ長くて、つよく、弾力のある羽毛が平行していて、その前縁部分は、雨覆い羽が厚く生えている。 鳥は翼をはばたいて飛び上がる(離陸する)がこのとき、翼の断面はスプーンの背のように、上に凸となって湾曲していて、空気の流れは上側の凸面のほうが、下側の凹面より速さが大きくなる。(ベルヌーイの定理:続編で述べる予定)同時に、翼の凸面の方へ引っ張り揚げる力が、発生する(リフト、揚力)。 このことは飛行機の翼と、まったく同じ作用なのだ。

 鳥が前へ進む力は、翼の先の方に生えている、ほそくて、たわみやすくて、よくしなる(撓る)−弾性の大きい−、初列風きり羽が、ちょうど我々がボート(カッター、カヤック、カヌーまたは、和船)のオールや櫂(かい)で水上を走るように、鳥の初列風きり羽の羽毛は空気の抵抗でねじられる。そのときに、空気の流れは渦となって後ろの方へ押し出す。(うずのことは、ヘルムホルツの定理:続編で述べる予定)飛行機のプロペラは回転しているとき、後ろの方へ渦形の気流を押し出している。 その反動(ニュートンの運動についての第3法則:続編)で推力が発生する事と原理的に同じである。

 鳥の羽はねじりの回転をつづけられないため、翼が下にはばたく時に羽毛がねじれて上に羽ばたくときねじりがもどる。 この作用を数十枚の羽毛で繰り返し行うため、前進の推力が出来る。 なお、速度を大きくするときは翼の全部を回転している。 我々人間が水泳で平泳ぎ(ブレスト)するとき、腕と手のひらが水中で回転しながら水を掻くのと同じように翼の付け根のところにある肩甲骨の関節を中心にして回転運動をする。

 とびの仲間、ワシタカのような大型の陸鳥の初列風きり羽は一番外側の細くながくて、良くしなる5、6枚の羽はお互いの間隔が飛行中に、空気の流れにより広げられて上側に反り返って小翼を作る。 飛行機の翼端小翼(ウィングレット)と同じように、翼端外側の気流が吹きあがる区域では、この小さな空間だけに、迎え角が大きくなるので、揚力が推進力成分に変わる。 抗力を滅らす効果があるし、また、翼端に生ずる翼端渦を滅らす効果がある。(うず:続編)皇居のお堀に放し飼いしている白鳥は飛べないようにこの風きり羽を切ってある。 風切り羽は鳥がとぶためのもっとも大きい役目をしている。 飛行機ならばプロペラやエンジンの役目と補助翼、スポイラー、前線隙間翼、ウィングレットなど、これら全部の機能を翼先端のわずか5、6枚の羽(毛羽)でしている。

 

3.骨格(ほねぐみ)

 鳥のはね(全翼)は人間ではうでであり、雨覆い羽ねは上腕骨、風きり羽ねは下腕骨で、翼先端の小翼(5、6枚の羽)が手と手の指とおきかえて考えると骨組みの役目が判るであろう。 {鳥の骨格−図1}。

鳥の骨は内部が空洞になっていて、鳥の体重を軽くするようになっている。 飛行機ならば軽量化構造とおなじ工夫がされている。 鳥の先祖は中生代:地質時代に、大いに活躍していた爬虫類(いまの蛇やトカゲ)で、飛ぶように進化した背骨のある動物であった。 

図-4:離水した水鳥、初列風きり

羽の先端を注意して見よう

 このことは、鳥の先祖の始祖鳥であったことから、想像される。 鳥の体に生えている羽毛は、陸上哺乳類の獣の毛、とか爬虫類のうろこ(鱗)と同じである。 鳥の足は表面が鱗で、おおわれている。 水鳥では、足の指の間が、カエルのような、みずかきと呼ばれる膜があって、水の中で泳ぐのに役に立っている。 人間もオリンピックの水泳選手のように一日に1万メートルも泳ぐと、手の指の間にみずかきが出来てくるという。 必要に応じて進化するらしい。

 鳥の筋肉は人間ならば、大胸筋と、背筋がすごく発達している。 ライト兄弟が1903年に、キテイホークの海岸で、人類が地上から飛び上がって飛行し、また、地上に無事に着陸することが可能であることを実験で確かめた。 それ以前はリリエンタールのグライダーが高いところから駆け下りてある程度速度がつかないと空中に浮かばなかった。 このように、地上から空中にあがるためには 速さが必要なのだ。水鳥は水面を足で走りながら速度を増し同時に大きく、しかも回転の早い羽ばたきをして離陸や、離水をして行く。 人間も腕に大きな羽をつけて、羽ばたけば飛行することが出来るであろうか。 残念ながら、人間の筋肉では不可能だろう。

引用文献

  (1)科学の事典 「鳥」の項 P-959 第3版 1985岩波書店(著)

  (2)模型航空機と鳥の科学: P-28〜33「渦」、東 昭  2版、電波実験社 1995

  (3)航空工学便覧 日本航空学会 (代表:富塚 清、発行:岩波書店)1941

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第22号 平成10年10月30日発行

はねだひこうじょう物語

副団長 渡辺 勇

 リンドバーグが33時間半かかって、大西洋を単独横断飛行に成功して世界中の話題となったのが1927年( 昭和2年)の事です。 それから12年後に日本が、純国産機「ニッポン」号で世界一周親善飛行をなしとげました。 昭和14年8 月26日、羽田飛行場は数万の観衆が「ニッポン」号の出発を見送りました。 機材も地上の設備も今とは比較にならないおそまつな時代でした。 最初の目的地は札幌からアラスカのノームでした。 この飛行の成功は、当時の青少年に大空へのあこがれを大いにかきたてたものです。

私が羽田飛行場につとめるようになったのは昭和19年の秋からです。 太平洋戦争も次第にまけはじめておりました。 マリアナ基地(サイバン、テニアン島など)からアメリカ空軍のB-29ばくげき機が高高度で銀色のつばさをかがやかせて、飛行雲をひいて飛んでくるようになりました。 当時、大日本航空という会社でDC-3という旅客機に通信士として乗務しておりました。 受け持ちの路線は内地(羽田〜大阪〜福岡)と台湾の間でスピードは今のジェット機の4分の1くらいでした。

 その頃の羽田は今のえびとり川のむこうに東西と南北に2本の滑走路があり、長さは700メートルか800メートルくらいでした。( 今は3000メートル)

 飛行場のとなりに穴守の町があり、京浜急行の終点穴守駅がありました。 この駅から歩いて15分くらい、穴守神社の前を通って空港のターミナルにつくことができました。 蒲田駅から会社の定時バスを利用する以外はこの電車を利用したものです。

 昭和20年になると、大型のB-29のぼくげきのほかに、航空母艦からの小型機のこうげきや艦砲射撃なども始まり、ますます不利になってきました。 私たちは福岡の雁ノ巣飛行場に移り、台湾へ飛ぶようになりました。

 沖縄ではげしい戦闘が始まったのはこの頃です。 戦艦大和が出撃してげき沈された時もこの付近を飛んでいましたが無事でした。 しかし同じ頃出発して台湾に到着しなかった仲間の飛行機もありました。

 東京や横浜や大阪などの町がつぎつぎと焼け野原となり、広島、長崎に原爆が落とされて8月に戦争は終わりました。

 昭和20年の9月、横浜から上陸したアメリカ軍の部隊がぞくぞく東京へ向かってやってきます。 .大鳥居の京浜急行のふみきりを電車をとめて、そのジープ部隊が通過してゆくのを私ははっきりと見ています。

 やがて羽田の飛行場もアメリカ軍が接収(せっしゅう)にやってきました。 その頃、賠償(ばいしよう)にするということで日本中の輸送機を羽田に集めましたが、その数はおよそ70機くらいあったと思います。 しかしアメリカ軍はこれらの飛行機をかたっばしからブルトーザで近くの沼に沈めて行きます。 私たちはぼうぜんとして見るばかりでした。 どうせ沈めるならタイヤをはずそうとか、無線機をはずそうなどとした人達もおります。 今のB滑走路の下か、昔の駐車場跡の下あたりには沢山の飛行機が埋められています。

 穴守の町の住人は72時間の内に退去(たちさる事)せよとの命令を受けました。 穴森神社はその時、えびとり川を渡って今の所へ移ったのです。

 アメリカ軍は、今までの滑走路を廃止して西北から東南にのびる新しい長い滑走路を作るように命令しました。 こういう仕事とか、航空灯台や電波標識(ビーコン)の保守運営をやるために航空局という役所が残りました。 もともと、戦後の日本にはいっさいの飛行機をみとめない方針でした。 しかし航空局という役所は残ったのです。 それが後の民間航空発足のための人材を確保するもとになりました。

 そして羽田から戦後初の民間航空が飛んだのはそれから6年余りの後の事で、さらに羽田飛行場がアメリカ軍から日本の管理下に移つたのは7年後の昭和27年7月のことです。 羽田を出発して福岡に向かった「もく星号」が大島の三原山にげき突し、37名の人が亡くなったのたのはこの年の4月3日の朝のことです。

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第22号 平成10年10月30日発行

理事 村田照明

 団員の皆さんこんにちは! 今回はお客さんを乗せてFLTする大型旅客機としては今世紀最後の新型機であり、20世紀における経験と英知(能力)の結晶として、21世紀にはばたく現在一番新しい飛行機、ボーイング777-300の特徴を簡単に紹介してみようと思います。

 皆さんの何人かは昨年夏のシミュレータの見学をしましたね。 思い出してみて下さい。 コックピットは広く、計器類は昔の飛行機とか、自動車の針のついた計器の集まりではなく、ボーイング747-400のように“テレビ”(ディスプレイという)がパイロットの前面に合計5台並んでおり、また、それらを操作するスイッチなどでいっぱいでしたね! これらは一応見たということにして今回は一番新しくて、一番大きなボーイング777-300の機体関係のお話しをしましょう。

 まず、この飛行機は皆さんがよく知っているボーイング747-400というジャンポ機より胴体の長さが約4メートル近くも長くなりました。 エンジンは4発から2発にとなり、胴体幅は多少細めですが民間機では世界一でしょう。 このような飛行機ができたのも日進月歩の勢いでターボファンジェットエンジンが開発され、今世紀最大といわれたジャンボ機のエンジンに比較して、およそ2倍近くの大きな推力(約10万ポンド!)を発生できる強力なエンジンができた事が最大の要因の一つにあげられます。

 そのほか、2発エンジンでも十分4発エンジン機に劣らない機材品質を作り出すため、従来にない施設とテスト方法を用いて信頼性をより高めました。 また、機体等の金属使用も、より重要な場所には軽くて強い“チタン金属”を使用し、また、タイヤ1本当たりにかかる力を軽くするために各々の主脚には6本のタイヤが取り付けられています。 この様にいろいろな所に新しい改善がなされています。

Main Landing Gear (Left side in air mode)

 

777‐300に初めて搭載されるP&W社製PW4090エンジン

ファン直径は112inもある

 

 座席数も最大550席と4発機のポーイング747にも負けない客室の広さを持っています。 では、この飛行機を製作するときの日本の協力とか、日本国内の航空会社の整備協力体勢などなど次回に続きます!

 

第23号 平成11年 5月 1日発行

(続き)

理事 村田照明

 「はねだ」22号に「ボーイング、777-300」の特長をいくつか書きましたが、日本国内では、いつから、又どの様に運航されているかを紹介しましょう。 はじめはやゝ小型の「-200」タイプが登場しました。

 1995年にANA社が国内線に就航させ、次の年にJAL社が、又その次の年にJAS社がそれぞれ同型機の運航を開始しました。 この様に国内3社が同一機種を発注し、運航したのは1975年(この時はボーイング、B-727)以来20年ぶりのよろこばしい出来事でした。 現在B-777(トリプルセブンと呼ぶ)は国内3社で30機あります。-300シリーズは最新型で、2発エンジン機としては超大型で4発機のジャンボ機より胴体の長さは4メートル弱長く、国際線用として、これから活躍する事でしょう。現在はまだ10機ほどです。 しかし各航空会社は2発エンジンで、旅客数がジャンボクラス、燃料は4発機より少ないので当然CO2も少なくて済み、地球かんきょうから云っても、とても良いジェット機なのです。これからは世界の空を飛び続ける事でしょう。

 国内航空3社はお互いに力を合わせて、技術の向上、各部品の面でも大いに助け合って無駄なお金は使わない様にしようと話し合っています。 この話し合いが航空運ちんを少しでもさげる事が出来、みんなにとって大変良い事になると思います。 又この飛行機はご存じのとおり、ボーイング社が作っていますが、実は日本の航空機メーカーがボーイング社のプログラム・パートナーとして機体構造の21%以上を担当しており、写真の胴体最後部の圧力隔壁やウィングの部分を作っています。

 B-777(-300)は現在の様なきびしい時代に生まれ、しかも3社の整備協力体制を作りだした、一種の救世主(機)とも云われています。

これからの国際競争時代を生き抜くための最善方法となる事でしょう。

胴体最後部の圧力隔壁

777 Lightweight Composite Structure

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第21号 平成10年 5月 1日発行

スピード(速度)について

副団長 渡辺 勇

 

 今回はスピードについて考えてみましょう。スピードとははやさのことですが、これには時速すなわち1時間のはやさと、秒速すなわち1秒間のはやさとがあります。時速であらわされるものには自動車、電車、新幹線そして飛行機やロケットなどがあります。秒速であらわされるものには風のはやさや音のはやさそして電波や光のつたわるはやさなどがあります。
 

1  時速であらはされるもの
 自動車は普通時速30〜 50キロメートル(kmと略す)くらいですが、高速道路では100km以上にもなります。新幹線は200kmから300kmくらいで走ります。最近開発されているリニアモーターカーは実験で500km以上を出したというニュースがありました。これは実用になるまでにはまだまだ長い年月がかかる事でしよう。
 飛行機のはやさについては少しむつかしいので最後にせつめいします.
 

2 秒速であらわされるもの
 風は風速何メートルという言葉をよく聞くと思いますが3メートルから5メートルくらいはおだやかな風です。台風などがくると30メートルから40メートルになります。40メートル以上になると立っていられません。
 音のはやさは温度によって変わりますが、通常340メートルくらいです。マッハというのは音のはやさの事で、ジェット旅客機などは音速の8割くらいで飛んでいます。これをマッハ0.80といいます。
 光や電波は両方とも1秒間に30万kmもつたわります。地球ひとまわりが4万kmですから、1秒間に地球を7まわり半するわけです。太陽と地球のきょりは1億5000万kmですから、1億5000万km÷ 30万km=500、つまり太陽から地球へ光がとどくのに500秒かかるわけです。
 

3 飛行機の速度について(少しむつかしいですが)
 飛行機の速度にはいろいろあります。まず気速といって空気に対する速度があります。ピトー管というくだに入ってくる空気の圧力によって速度が分かるようになっています。これには計器にあらわれる計器速度(けいきそくど)というものと、高度と温度により補正(ほせい)された真気速(しんきそく)というものがあります。一般に飛行機の速度というのはこの真気速のことなのです。また飛行機は空気の中を飛ぶので風の影響(えいきょう)を受けるわけです。うしろから風が吹いていれば追い風、前から風が吹いていれば向かい風です。そうすると地面に対するはやさは当然変わります。この地面に対するはやさを対地速度(たいちそくど)または実速(じっそ)といいます。何処から何処まで何分かかるあるいは何時間かかるというのはこの実速によって計算します。
 もう一度せいりしますと、飛行機の速度には大きく分けて計器速度、真気速、実速の3つがあるとおぼえて下さい。
 

 さて飛行機の速度のあらわしかたですが、実際にはkmよりもノットという単位が使われております。1時間に1海里(かいり)のはやさを1ノットといい船などで使われていますが飛行機も使用しています。海里とは地球の緯度から出されたものですが、 1海里は1852メートルです。ジェット旅客機の速度は400〜 500ノットです。これをkmにしますとおよそ700〜 900kmくらいとなります。
 最後に入工衛星やスペースシヤトルはどのくらいのスピードで飛んでいるのでしょう。無重力で空気のない空間を飛ぶので計器速度とか真気速というものはありません。しかし約90分で地球を西から東ヘ一回りしますので、毎時約2万7000kmくらいの速度で飛行していると思います。これは1秒間で約7500メートルくらいのスピードになります。

 

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第20号 平成 9年11月 1日発行

飛行機の進歩と整備方式の移り変わり(1)

理事 村田照明

 1903年、今から94年前に、アメリカのライト兄弟が初めて距離にして約35メートル大空を飛びました。この距離は、ボーイングジャンボ機の全長(70.7メートル)の半分という短い距離でした。この時から、この地球上に飛行機という、空飛ぶジュータンではなく、大空を飛ぶ機械(マシーン)が登場しました。

 人間は、大昔の時代から大空を飛びたいという夢を持ち続けていましたので、どこの国の人々も、その驚きは大変なものでした。アメリカはもちろんのこと、ヨーロッパ諸国、そして日本でも、その後いろいろと研究がなされ、その進歩はめざましいものがありました。特にアメリカでは、国が大きいということもあり、少しでも速く輸送するため「郵便専用機」が発達しました。

 あの有名なアメリカの東海岸からパリー迄の無着陸飛行をなしとげた「リンドバーク」も、空飛ぶ郵便屋のパイロットさんでした。

 世の中良いことばかり続くものではありません。人間が一番いやな大きな争い、すなわち国と国との戦争が、ヨーロッパなどで何回も起こりました。これに伴い飛行機は良い事にも悪い事にも利用されましたが、それが飛行機の発達を促したのも事実です。

 各国は競ってより優れたエンジンや機体を開発し、かつ、少しでも飛行機を大きくし、より速く飛べる工夫に夢中にでした。エンジンの馬力も大きくなり機体も大きくする研究が進みました。始めは自動車のエンジンとよく似ていましたが、後に空中でエンジンを冷やす方式(空冷式)になりました。それは中心のプロペラを回す軸に向かつて複数の、そして複列にシリンダーが向かい合う星型エンジンの開発でした。

 一つのエンジンで機体を支えられないときは双発、三発、四発機というようにだんだんと大型化して行きました。飛行機が大型化すると同時に、技術的に難しく複雑になり、故障も今まで以上に多くなりました。これを操縦するパイロットも判断ミス(ヒューマン・エラーという。)を多く起こすようになつてきました。

 飛行機は、皆さんも知っているように大空を安全に、より速く飛ばなくては意味がありません。しかし、地球には飛行機の大敵があり、ともすれば墜落という大きな欠点を持っています。これは地球に重力があるからなのです。

 いくら腕の良いパイロツトでも、エンジンや計器類が故障を起こしては、飛ぶことが困難になってしまいます。したがって、より信頼できる飛行機をパイロットに提供できる優れた整備技術を持った整備士(ライセンス・メカニック又はエンジエアともいう。)が当然必要となります。

 話は少し飛びますが、1945年頃(大きな世界戦争が終了した年)から大型機が発達してきました。特にアメリカでは目を見張るものがありました。例えば、ダグラスDC4(4発60人乗り)、DC6、DC7等々。またヨーロッパではフォッカーF27とか、いろいろな大型飛行機が登場し、旅行は船から飛行機の時代へと移り変わってきました。

 日本でも、一時お休みしていた航空界が1951年(昭和26年)頃再開され、日の丸をつけた飛行機が日本の空を飛び始めました。

 前にも書きましたように、より速く、より安全にをモットーに、乗って頂くお客様にサービスするためには、しつかりした整備力、すなわち整備士一人一人の優れた能力(スキル)が必要です。各航空会社は、国の指導にしたがって大きな整備工場を作ったり、優秀な整備士としての人材を育成することに力を注ぎました。(つづく)

 次回は、羽田航空少年団の小学生の皆さんにも解りやすいよう飛行機の整備の方法などについてお話してみようと思います。

 

第21号 平成10年 5月 1日発行

飛行機の進歩と整備方式の移り変わり(2)

理事 村田照明

 1957年頃から日本の上空も”JET”化され、羽田国際空港は多機種の大型レシプロ機やポーイング707、DC-8を始めとする航空機でいっぱいでした。

 整備の裏方さんはより大変なことになりました。新しい知識を取得するために、アメリカやヨーロッパに出向きました。本来、日本人は”一”を聞いて”十”を知る人種ですから(君たちはどうかな?)飛行機の進歩におくれることなく、いや―歩進んだ方式でより”安全”を保ちながらかつ経済的にも成り立つやり方へと進んでいきました。

 各航空会社の使命は第一に安全性、次に定時性かつ快適な航空運送を社会に提供することであり、整備の目的は航空機材をより安全に大空へと飛行させ得る信頼性を維持させ、かつ向上することではないでしょうか。

 整備方式も著しい進歩を見せ、ここ何年か前からは設計、使用条件、故障時の運航への影響などを考えに入れて、より効果的な整備を行うために、HT、OC、CMなどの整備技法(方法)を適用するようになりました。

●HT(HARD TIME)
 時間限界を定めて機体から部品を取りおろして分解整備をする。

●OC(ON CONDITION)
 定期的に点検、試験等を行い、不良個所が有ればそれのみを修理し、適正な処置を取る。

●CM(CONDITION MONITORING)
 不具合状態のデータを見て、分析/検討をし、必要に応じて部品交換等を行う方式。

 又、B767(B747-400、A320etc)では上記の区分にとらわれず、より効果的なTASKを選択する手法を用いています。

 機材の整備に対する信頼性無くして人々は航空機を利用してくれません。

整備作業 ─

┌ 定例作業(信頼性の維持)


┼ 修理作業(信頼性の回復)


└ 改修作業(信頼性の向上)


少し難しい言葉になってしまいましたがお父さん、お母さんに聞いて見て下さい。

エンジン取り外し整備

マッハ2、超音速旅客機

 飛行機は一日一日と進歩し、すばらしい飛行機が出来てきます。整備もそれに遅れまいと技術との戦いをしています。それによってより優れた、かつ、より安全性のある飛行機が我々の上空を飛ぶ。これはすばらしいことですよね。日本も研究しています。近い将来、写真のようなHSSTも夢ではないのです。現実に発表されています。次は君たちの出番です。よろしくね! 

 

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第19号 平成9年5月1日発行

「ユニセフを支援して」

理事:前田みなほ

 1996年第18回ユニセフ・ハンド・イン・ハンドに前年通り羽田空港で参加いたしました。 全国統一推奨日は12月22日(日)午後1時〜2時で全国のたくさんのボランティアが街頭募金を実施しました。 羽田航空少年団ではその次の日に“さよならパーティー”を予定していましたので、それよリー週間前の15日に行いました。

 今回も東京国際空港長はじめ空港ビル関係のかたがたの御理解をいただき、またモノレール「羽田空港」駅のご協力のお陰で寒いときにもかかわらず外気に影響される事なく良い活動をすることができました。

 参加者は小学生の団員5名を含めて幹部団員、役員そしてご家族の方々で合計16名に加えて日航スチュワーデスOG会の8名で総勢24名になりました。 皆それぞれに工夫をこらした募金箱を手に集まり、熱心な父兄の協力でポスターが張られ、ちょっとしたリハーサルで声をあわせる約束事もでき午後2時から始めました。 二度目の団員は自信をもってより効果的な方法を考えて行動しますので、それにつられて初めて参加する人も次第に声もさらに大きくそろうようになりました。

 何よりうれしく思えましたのは、秋にお母様を亡くされた田口敬祐君がお父様と参加して元気に活動していたことです。 つらさにめげる事なく「世界の子どもたちのために」できることは一緒にやって行きたいという気持ちには心から感動いたしました。

 “どうしたら通りかかる人々に関心をもっていただけるか”を一人一人が考えて、並び方や呼びかけの方法をあれこれ試行錯誤しているうちに、大きな声と感謝の言葉が一番必要なことと気づいたようです。 

 一番興味深く思えたことは、飯沼晋太郎君の小さな弟さんがしばらくの間はただ見ていただけでしたが、そのうちに次第に募金活動の中に入り出してとうとう列に加わリー緒に声を併せて呼びかけをするようになりました。予備に持って行った募金箱を手渡したところうれしそうに受け取り団員と同じように胸にさげ、ちょっと誇らしげに通りかかる人に差し出しました。もちろんすぐに箱の中に募金の音がなりました。

 きっと、お兄さんたちが真剣に取り組んでいるのを見て「その輪の中に入りたい」と思ったのでしょう。 羽田航空少年団ではほとんど全ての行事に家族が参加できますし、むしろ一家そろって出掛けてほしいと願っていますので、こうした喜ばしいハプニングは望むところでもあります。

 そうこうしているうちに約45分間が過ぎ、声も限界になってきたので引き上げることにいたしました。手に持っている募金箱はすでにずつしりと重くなっていましたのこの時の募金額が約3万4千円。 心ある方々の暖かな思いの込められた世界の子どもたちへのプレゼントです。 日航スチュワーデスOG会の方々のほうもほぼ同じようであったとのことです。 それと“さよならパーテイー”でユニセフの行事の時には参加出来なかった団員たちから寄せられた募金を合わせて4万円になりました。 財団日本ユニセフ協会へハンド・イン・ハンド募金として郵便局からすぐに振り込みをしました。(実施から二週間以内する約束にならています。)もう一つ反省会もかねて、ユニセフ指定の「報告書」に実施の様子を詳しく書き、当日久保団長の撮ったスナップ写真を添えて提出しました。

 二月になって「お礼状」と「領収書」がユニセフから送られて来ました。 一人一人がちょっとボランティアとして活動するだけで一年間に400万人以上の子どもたちの貴い命を救うことができます。 次の機会にはさらに多くの団員たちの参加を期待いたします。 団員の中には「一年間の最も楽しかつた行事であつた。」という声もありました。

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第18号 平成8年11月1日発行

「お天気の話」

副団長:北城恒雄

 私達の日常生活において、天気は切っても切れないことであり、あまりに密接すぎて特に考えることすらないのが普通である。 私は気象の専門家でないので、それ程深い知識をもっていないが、今までの職業柄、特に天気の状況については仕事の一つ一つに常に関心をもっていたし、知っていなければならなかった。 天気のことを気象という。 気象という言葉はいろいろと意味があるかも知らないが、地球をとりまく大気の変化と、それによって起こる現象と思えば大体良いと思う。 大気の変化がどうして起こるかということは、太陽の影響、地球の自転から始まり、いろいろ難しい話になり、本当のところ私にはそれをうまく説明できる知識は持っていない。

 そこで簡単な天気の話をしたい。 天気のことは皆さんは学校でも習っているので、それの復習と思って読んでもらいたい。 天気をいうときは、先ず空を見上げて雲があるかどうか、寒いかどうか、それによってこれからの行動をどうしようかなど考えるだろう。 そこで雲について簡単に常識程度の話をしてみよう。

 雲は空気中の水蒸気が上昇気流により冷やされ細かい水滴や時には細かい氷になって出来る。 雲が出来るのは空気の移動によるものであるからそれに最も影響するのは皆さんがテレビの天気予報のときに見る高気圧と低気圧ということである。 これは違った性質の大きな空気の集団である。 低気圧は高気圧に比較して暖かい。 だから低気圧と高気圧の接触するところでは低気圧が高気圧にもち上げられるようになる。 そこで低気圧の前面には雲が出来るようになる。 高気圧は良い天気をもたらし、低気圧は雲の多い悪い天気となる。 他にも雲の出来る原因はいろいろあるが、今述べたことは最も一般的な雲が出来る理由である。

 雲の種類はその高さから非常に高い雲、地面に近い雲、そしてその中間の高さの雲というように高さによって分けられる。 高い方の雲では青い空にほうきで掃いたような白いすじ状の雲、魚のうろこのようなうろこ雲、うすいベール状のうす雲というように如何にも高い雲に見える雲などがある。 これらの雲の高さは5000mから13000m位である。 うろこ雲が出ると天気は次第に悪くなるといわれている。 中間の高さにある雲は綿のかたまりのようなまだら雲、やや黒ずんだ灰色のベール状のおぼろ雲、更に暗灰色のベール状の今にも雨が降りそうに見えるあめ雲(乱層雲)、これらが高さ2000mから7000m位の間にある。 2000mから地上近くにまで灰色のまだらな雲や、層雲といって霧のような雲である。 その他に地上近くから垂直に立っている入道雲(積乱雲)や、むくむくともり上がった真白い綿のようなわたぐも(積雲)などがある。

 一般に中間の高さより下の雲が雨を降らせる。積乱雲は地上から垂直に立つように大きく発達して高さ13000m又はそれ以上になる。 積乱雲の中は強い上昇気流や下降気流があり、飛行機にとっては絶対に入ってはいけない危険な雲である。 大抵は入道雲として判然と見えるので近寄らないし、操縦席のレーダーでもその存在がよく分かるのでそこを避けるように飛ぶ。 特に東南アジアには大きな入道雲が屏風のように立っており、その為に100km以上も迂回することもある。 発達している雲の中には「ひょう」を降らせることがある。 「ひょう」は氷のかたまりで、普通は2cm位の大きさであるが、時にはピンポン玉位のものもあり、飛行中の飛行機に大きな傷がついたり、地上の作物に大きな被害が出ることがよくある。

 霧は地面に接して出来る雲であるが、高い雲とその出来る原因に違いがある。 霧の一番不都合なことは、視界が悪くなりその為に一般の交通機関でも速度を制限したり又高速道路では通行止めにしたりする。 霧は飛行機の運航にとっては最も要注意の気象条件である。 離着陸の時の視界の妨げになり危険であるので、一定の視界以下になると離着陸は出来ない規定になっている。 霧は大抵の場合長く続くことはない。

 気象条件と飛行機との関係は当然ながら深いかかわり合いを持っている。 単的にいうと気象条件が悪いと飛行機は飛べないということである。 それで例えば霧で視界が非常に悪いときでも離着陸出来るように、いろんな分野の技術と知能をしばって研究し開発されているので、近い将来はどんなに深い霧で視界が悪くても離着陸出来るようになるかも知れない。 離着陸が出来ない気象条件は霧の他に横風が非常に強いとき、滑走路が凍結などで滑りすぎるとき、このような時は離着陸は出来ない。 安全な飛行をする為には悪い天候は避けるということは大原則であるし、スポーツにしても、仕事の上でも天候を無視して強行すると思わぬ事故を招くことは皆さんよく御存じの通りです。

天候には逆らわず仲よくしていく事だと思います。

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第18号 平成8年11月1日発行

「覚えておきたい一口知識」

理事:杉本悟一

@ =ジェツト機の燃料の話

 普通プロペラ機の燃料は、ガソリンを使つていますが、ジェット機の燃料は、ケロシンを燃料としています。これは家庭用ストープの灯油と同じようなものです。大型ジェット機の燃料は、その殆どが主翼の中のタンクに搭載されますが、その量は大変なもので、満タンにすると飛行機の重さの約半分位になります。機種別の燃料搭載量と飛行距離をみると、次表の通りです。

飛行機の型式燃料搭載量(キロリットル) 飛行距離(キロメートル)
B767(双発)63 5,800〜12,600
DC10(3発)138 6,000〜12,000
B747-400(4発)215 13,500

以上「日本航空広報部編 飛行機ふしぎ百科」

 ジヤンボ機の燃料搭載量は、目安としてドラム缶にすると約1,000本分です。これを16時間位で消費する訳で、1分間にドラム缶約1缶が燃焼されることになります。大変な量ですね。飛行距離で見ると、ジャンボ機は、ドラム缶1本では13キロメートル位飛行することになります。これを自動車と比較してみると、効率の良い小型自動車では13キロメートルを走行するのにガソリン1リットルで済みます。

A 航空路の話

 空には、道路もないのに、どうしてちゃんと目的地までいけるのでしょう。
 空には道路はありませんが、航空路といつて飛行機が飛ぶための道が決められています。日本国内の航空路は、地上に設置された無線標識施設(160カ所)を、それぞれ直線で結んで設けられ、各コースには道路と同じように番号がつけられています。

 例えば、羽田から福岡へ行く定期便の飛行機は、何本もある航空路のなかから、一番天気がよくて、燃料も少なくてすむような航空路を選んで飛んでいきます。地上からの電波を受信しながら飛んでいるので、雲の中でも、また、外が見えない夜でも、正確に航空路を飛ぶことができ、確実に目的地へ到着することができます。

 上空では、他の飛行機と衝突したりしないように、東向きと西向きで高度を変えたり、時間差を設けたりして空の交通規制が行われています。これを航空管制といいます。成田から太平洋を横切つてサンフランシスコヘ行くときのように、洋上を飛行する場合は、国内線のような無線標識施設がないので、陸上とは違つた方法で飛行します。

 これには、航空士が搭乗して星を測定し自分の位置や風の強さを計算しながら飛行する天測航法、アポロが使つた慣性航法装置による自蔵航法、静止衛星を利用する衛星航法などがあります。

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第18号 平成8年11月1日発行

「地球と太陽と星」

副団長:渡辺 勇

 

 わたしたちの住んでいる地球が、太陽系のひとつである事は皆さんよく知っておりますね。 太陽からのほどよい光と熱と、水や空気にめぐまれて生物が生きてゆける条件がそろっているわけです。 もっとも極地や砂漠など必ずしもそうでない所もあります。 しかし他の天体、たとえば地球のとなりの金星は、太陽に近すぎて高熱でとても生物は存在できませんし、同じく火星も一時は火星人がいるなどといわれた事もありましたが、生物は存在しません。 木星や土星も同じです。 地球は太陽からちょうど適当な距離にあるわけです。


 では太陽と地球の距離はどのくらいあるのでしょうか。 やく1億5千万キロメートルといわれております。 これは光のはやさで500秒かかります。 8分以上かかるわけです。 では太陽の大きさはどのくらいでしょうか。 半径が地球の109倍で体積は130万倍もあります。
 今から約500年前にコベルニクスという人が、地球が回転するのであって太陽や星が地球を回つているのではないという地動説を発表しておおさわぎになった事があります。
 しかしわたしたちは日の出とか日の入りなどといって、太陽がうごく事としております。 それでも実生活上は何らさしつかえはないのです。 太陽の動きをもとにして時間を作りました。 1日24時間というのは太陽(本当は平均太陽という)が地球をひとまわりする時間です。 1時間は60分、1分は60秒と決めて世界中の人がこれに従っています。 いつだれがきめたのか知りませんが、もし1日を20時間とし、 1時間を100分、1分を100秒ときめたらどうだったでしょう。 ついでに一回りを360度でなく、400度として直角を100度としたらどうだったでしょう。 いろいろと計算が楽で便利になったのではないかと思います。


 さて星には惑星(わくせい)と恒星(こうせい)があります。 惑星は地球と同じように太陽をまわる金星、火星、木星、土星などで、見える位置が変化します。 金星は時には明けの明星として夜明けまえに東の空に、時には宵(よい)の明星として夕方西の空に明るくかがやきます。 星のなかでいちばん明るい星です。 火星はやや赤い星で分かりやすい星です。 木星は夜半の明星といわれるくらいで、かなり明るい星です。 土星は大体一等星くらいの明るさです。 いずれも自分では光を出さず、太陽の光を反射しているわけです。 わたしたちが肉眼で見える惑星はこの4つです。 その他に水星、天王星、海王星、冥王星という惑星もありますが、肉眼では見えません。 なお月は衛星といって地球の分身です。


 その他の無数の星は全部恒星で、つねに同じ位置でかがやいています。 恒星は太陽と同じで自分で光も熱も出しています。 すなわち太陽はもっとも近い恒星なのです。 太陽の次に近い恒星となると6光年くらいの星で、ほとんどの星は百光年、千光年、1万光年といった星ばかりです。(光年とは光が1年かかってとどく距離の事)

 星の数ほどというたとえがあるように、星の正確な数はわかりません。 しかしこれら恒星のうち10%は太陽系のような惑星をもっているといわれ、さらにその惑星の10%には生物がすんでいるともいわれております。 その中には人間のような、あるいはもっと高等な動物が住んでいるかも知れないといわれております。 その天体の数はある学者の説では2兆個ともいわれております。気が遠くなるような数字ですね。
 

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第17号 平成8年5月1日発行

「ユニセフを支援して」

理事:前田みなほ

 昨年12月に行われたハンドインハンドに、私たち羽田航空少年団もボランテアとして参加しました。毎年12月に世界の子どもたちのために呼びかけるユニセフ募金は、1979年の国際児童年に始まつてから17回目になりました。

 「街頭募金をするなら是非羽田空港で」と、実現は大変難しいことではありましたが、春から夢の計画を立てて一歩づつ努力を重ねました。そして久保団長のお骨折りで「モノレール羽田空港駅の改札口付近」での募金活動の許可を戴くことができました。ユニセフを理解していただけるよう当日配布するチラシも用意しました。

 おかげさまで羽田航空少年団にとって初めてのユニセフ募金は、大成功を収めることが出来ました。快くご協力をしてくださった多くの方々に心から感謝申し上げます。

ユニセフとは

 ユニセフ(国際連合児童基金)は、第二次世界大戦の被災児童を救援するために設立され、日本も昭和24年から同37年まで、学校給食のミルクなどの援助を受けていました。当時の金額で65億円にもなりました。
 現在、ユニセフは発展途上国の子供たちの生命と健康を守るため、144カ国で保健サービスや初等教育の普及、安全な飲み水の確保、栄養の改善、緊急支援などを実施しています
 世界では、栄養不良と病気で年間1200万人弱の子どもたちが死亡しています。
こうした明日の世界を担う子どもたちを救う国際協力が急務となつています。

ユニセフが進める開発協力

@予防接種と経口補水塩(ORS)で多くの幼い命が救われています。
Aきれいな水が暮らしを変える。 :安全な水が飲めない人が13億人います。
Bすべての人に教育を。 :世界中に文字の読み書きが出来ない成人が10億人。
C栄養失調をなくす努力:途上国の子どもの3人に1人が栄養失調で成長阻害。
D緊急事態にすばやく対応:災害と紛争で10年間に200万人の子どもが犠牲に。
E母親の社会参加が子どもに健康をもたらします。


 平成7年12月17日 日曜日午後 団員、幹部団員、役員に加えて熱心な父母の方々、それから日航スチュワデスOG会の役員とそのお子さんたちも「一緒にやりましょう。」と集まりました。うれしいことに総勢30人ほどになりました。

 活動をポスターでアッピールしたり、それぞれ工夫をこらした募金箱にシールをはり、呼びかけのリハサルもしっかりやり、14時の全国一斉街頭募金の時を迎えました。「恥ずかしがらないで」の合い言葉のもとに元気よくスタートしました。

「世界の子どもたちのためにご協力お願いします。」

 大きな声でよく揃った呼びかけは心地よく響き、ホールに飾られた巨大なクリスマス・ツリーのてっぺんまで届いたことでしょう。時が経つにつれて、より効果的になるよう行動をコーディネートするリーダーが一人三人と自然発生的に出来てきて、さらに盛り上がり、立ち止まって募金をしてくださる方がどんどん増えてきました。手にした募金箱は、暖かな善意あふれる人々の献金でしだいに重くなってくるのでした。一時間は「あっ」と言う間に過ぎて、参加した全員に無事終了の安堵感がみなぎり、活動成功の充実感だけが残りました。

 私自信は、日航スチュワデスOG会のメンパーとして銀座、渋谷で、そして今回のビッグ・バードで羽田航空少年団の一員として参加いたしました。三年連続で活動出来たのですが、今回は準備にかなりの期間とエネルギーを注いだということもあるのでしょうか、とりわけ満足感がありました。

 それにしてもクルド、ルワンダ、ボスニア・ヘルツゴビナと、毎回緊急援助の対象となる地域が必ずあるということに驚かされます。これだけこの地球上に紛争が次々と起こり続けていて、世界中のさまざまな地域で、それに巻き込まれている多くの人々がいるということです。

 私たちが自動販売機でなんとなく買っているウーロン茶やジュースは、ほぼ100円です。汚れた飲み水と劣悪な衛生状態が引き起こす下痢による死を防ぐ経口補水塩は、一袋10円です。六つの病気から子どもを保護するためのワクチンの費用は、150円余りです。千円あれば、失明を防ぐビタミンAカプセルが333個も買うことが出来るのです。このように、子ども一人の命を救う手助けは、だれにでも出来そうに思えます。

 その次の週に行なわれた12月行事「さよならパーテー」では、元日本航空機長でいらした岡留氏から“美しい地球をきみたちへ”というお話をしていただきました。地球環境の保護に尽力され、日航機にユニセフのマークをつけることなど、熱心にユニセフを支援しておられる方ですから、話はもちろんその方面の豊かな活動についてもしていただけました。

 それから、出席者のうち街頭募金に参加できなかつた方にお願いしましたところ、おこづかいから献金がいただけました。17日の分と合わせて43,300円が集まつたことになりました。さっそく次の日には送金し、ユニセフから要望されたレポートに活動当日の写真をつけて郵送いたしました。

 それへの「お礼状」と「ハンドインハンド募金として領収いたしました。」という領収書が、財団法人日本ユニセフ協会から一月に送られて来ました。

 羽田航空少年団全員のやさしくあたたかな心が、ここに表されたのです。

 私が小学校に入学したときは、丁度学校給食でのミルクの援助が開始されたころなのですが、当時はそれがユニセフからのものとは意識していなかったように思います。あらゆる物資という物資が不足していたときではありましたが、「あのミルク」には残念ながらおいしかったというような思いでのある方は無い様な気がいたします。しかしながら、そのお陰で発育に不可欠な栄養が補給され、しっかりした体格に恵まれて成人になれたことに感謝する人がほとんどでしょう。

 “この笑顔がみたいから”とユニセフの援助事業は いま続けられています。その精神は次のような言葉で表現されています。

リンゴ1個を分ければそれまでですが

「木」を育てれば、

もっと多くの人にリンゴが行きわたります。

ユニセフの援助はそんな「息の長い」援助です。

 

 私も“この笑顔が”たくさん見られるようライフ・ワークとして、小さな力ですがずっとずっと続けて活動して行きたいと思っています。そして「木」が大きく育ち、みんなが自立出来ることを夢見続けたいものです。

 羽田航空少年団のみなさまと一緒に出来るのでしたら、もっと勇気がわくのですが・・・。

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第10号 平成5年1月31日発行

「ニッポン号の佐藤先生、サヨウナラ」

監事:及位野衣

 

 「ニッポン号」とは、昭和14年8月26日から10月20日までの56日間で世界一周した、日本製の双発長距離機の名前です。

 すでに第二次世界戦争が始まっていた最中に5大陸と2太洋を翔破し無事帰国し、太平洋戦争中は、海軍96式陸上攻撃機として活躍した名機です。昭和12年に朝日新聞社が、単発小型機「神風号」で、東京からロンドンに飛行し、大記録を作ったことから、毎日新聞社が企画実施したものです。世界一周するからにはヨーロッパのフランス・イギリス・ドイツ各国を訪れる予定でしたが飛行出来ず、大西洋からスペインを回ってローマに着陸し、南方コースで帰国した。

左:及位監事    右:佐藤顧問

(平成5年2月4日逝去)

 他国の飛行場へは着陸許可がなければ降りられず、他国の上空は飛行許可がなければ、勝手に飛行出来ないのです。勿論国内も同様です。海外の場合、燃料はその都度買って積まねばならない。買う貨幣は各々ちがい、言葉も異なるので、その煩雑は推して知るべしです。飛行のむずかしさにも勝る。勿論アラスカのノームヘの4千キロの飛行などは、奇跡に近い困難の克服の賜です。

 佐藤先生は、親善使節の大原武夫、機長の中尾純利、パイロットの吉田重雄、機関士の下川一、八百川長作、技術の佐伯弘各氏等7人と乗務していた。佐藤先生は通信士であると共に航空士の仕事に造詣が深く大きく貢献した。

 佐藤先生は、天性の明るい性格で、いつでもどなたとでもにこにこして、特に少年団の皆様には、とかくむずかしい航空の話を、自身の経験にあわせて、わかりやすく懇切丁寧にくだいて説明し、皆によろこばれていた。

 後年は、航空大学校、航空保安大学校の講師として、学生の教育につとめていたが、若い者が好きで時間があれば生徒を連れてハイキングなどを楽しみ、せまい機内では何よりも「人の和」が大切とその実践につとめ、コックピットを明るく楽しいムードとした。

 ノームヘの超高度で希薄な空気と低温度に堪えて、キーを打ち続けられたのも、そのような日頃の心がけが、もたらしたものです。乗員中25才の最低年齢でした。このような世界記録の挑戦に選ばれたのも、佐藤先生の優秀さが認められたものです。

 あのやさしい笑顔を思い浮かべ″サヨナラ″したいと思います。      合掌  平成五年二月

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第9号 1992年1月31日発行

「やさしい電波の話(1)」

副団長:渡辺 勇

 電気にはプラスとマイナスがあります。そして電流には直流と交流があります。懐中電灯の中には乾電池が入っていますがこの乾電池の電流はつねにプラスからマイナスヘ流れます。このような電気の流れを直流といいます。皆さんの家庭の電気の流れは何だか知っていますか。交流なのです。これはある時はプラスある時はマイナスに交互に流れるのです。それが1秒間に50回プラスになリマイナスになります。これを50ヘルツの周波数の電流といいます。1秒間に千回ならば1キロヘルツ(1KHz)、百万回ならば1メガヘルツ(1MHz)といいます。(以前はヘルツといわずサイクルといっておりました)

 さてこの電気の流れがプラスになリマイナスになることを電気振動といいますが、 1秒間に何十万回も何千万回も振動しますと電波となって空中をとんでゆきます。正確には電磁波といいますがこれの速さは光と同じで1秒間に30万キロメートルです。地球の赤道の回りが4万キロメートルですから、1秒間に地球を7回半も走る速さです。

 この電波は周波数により様々な特徴がありまして、音声や画像をこの電波にのせるとラジオとなリテレビとなるわけです。そして飛行機や船舶の通信及び航行援助用にも沢山使用されております。今や電波なしの生活は考えられませんし、電波なしの飛行機や船舶の運行も考えられません。

 あまり身近かに電波が使われているので皆さんはそのありがたさがわからないのです。ラジオ・テレビなしの生活が想像できますか。テレビのチャンネルをきり変えるのもコードレステレホンもポケットベルもみんな電波を利用しているのです。

 電波が飛行機にどのように使われているか次回に説明したしましょう。

 

 

第10号 平成4年2月23日発行

「やさしい電波の話(2)」

副団長:渡辺 勇

  前回は、電気のプラス・マイナスや、直流・交流、そして電気振動、周波数、電波の速さ、ラジオ・テレビなど、身近かに、電波が利用されていることを、説明しました。今回は飛行機に、電波がどのように利用されているかを説明しましょう。

1.通信
(1)VHF
 飛行機はだまって勝手に飛んでいけません。エンジンをかける時も、動きだす時も、飛び上がる時も、飛び上がってからも、そして着陸する時も、つねに管制の許可と指示をえなければなりません。

 これには主にVHF(超短波)という周波数帯の電波で交信します。この電波は100メガヘルツ台の周波数です。1メガヘルツといえば、1秒間に百万回振動することですから、100メガというと、1秒間に1億回も振動する電波なのです。こういう周波数の電波は、直進性があって雑音が少なく近距離通信に有効です。

 国内あるいは近距離国際線では、このVHFが大いに活用されております。(テレビの電波もこの周波数帯です)

(2)HF

 しかし、飛行機が遠い太平洋上とか、北極上空を飛んでいる場合、このVHFでは電波がとどきません。そこで長距離用のHF(短波)が使われます。周波数は5メガとか10メガあたりですが、地域・季節・昼夜などにより、電波のつたわり方が変化する性質を持っています。長距離を飛ばない飛行機には、HFを持たないものもあります。
 そのほかに、LF(長波)、MF(中波)、UHF(極超短波)などがありますが、通信用には上にのべたVHFとHF2種類の電波が、多く使われております。

次回は、航行援助に電波がどのように利用されているかを説明いたしましょう。

 

第11号 平成5年7月30日発行

「やさしい電波の話(3)」

副団長:渡辺 勇

今までの復習

 まず、電気には直流と交流があること、すなわち懐中電灯のように、プラスからマイナスヘー方的に流れる電気は直流といい、家庭電灯やラジオ、テレビのような振動電流は交流といいます。電気は振動回数が高くなると空中を飛んで行きます。そのはやさは光と同じで、1秒間に30万キロメートル、つまり地球を7回り半も飛ぶはやさです。これを電波といいますが、波長(周波数)によりさまざまな特性があり、それぞれの特長をうまく利用して役立てております。飛行機や船舶や人工衛星などは電波のおかげでめざましい進歩をしました。これからもますます発展して行きます。


VHFとHF
 近距離通信にはVHF(超短波)、遠距離通信にはHF(短波)が使われることは前回説明しました。VHFというと100メガヘルツくらいですから、1秒間に1億回もプラスマイナスを繰り返す電波です。さらに1秒間に10億回も振動するUHF(極超短波)などは通信衛星を中継して外国の様子をテレビで写してくれたり、気象衛星「ひまわり」から雲の様子などをきれいに送ってくれます。


電波の灯台
 船がくらい海上を行く時に灯台があると大変助かります。飛行機も全く同じです。しかし飛行機は雲の上を飛びますから灯台の光がとどきません。そこで無線標識局という電波を発射する設備を飛行場や地上の要所要所に造って、飛行機が迷子にならないようにしてあります。
つまり電波の灯台がたくさんあるのです。

ADFとNDB
 ほとんどの飛行機はADFという自動方向探知機を持っています。これは地上のNDBという無線標識局から発射される電波を受信して、その局の方向を知ることができる装置です。
 NDBは飛行場にあり、飛行場と飛行場の中間の大事なポイントに設置されてありますから、飛行機はADFで出発点から目的地の飛行場へ方向を知りながら飛ぶことができます。これに使用される電波は中波といってラジオ放送の電波より低い周波数帯です。

VORとDME
 これは超短波と極超短波を利用して方向と距離を飛行機に知らせる仕組みで、現在の航空路はほとんどこのVORとDMEで構成されております。VORは飛行機に対してその局から何度の方角にあるかを、DMEはその局から何マイルにあるかを教えてくれます。そして主な飛行場や途中のポイントポイントにありますから飛行機はつねに自分の位置がどの局から何度の方向の何マイルにあるかが分かるわけです。このようにして空には目には見えない電波のハイウエイができております。パイロットはつぎつぎと電波の標識局をえらんで迷子にならずに飛んで行けるようになっています。
 その他にレーダーで飛行機を誘導したり、視界が悪くても着陸できる装置など、電波は色々な面にたくさん利用されております。

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第6号 1990年11月30日発行

「日航製式YS−11」

副団長:飯塚増治郎

 昭和31年頃通産省では航空機工業の育成振興を計るという政策のもとに、中型輸送機国産化計画を立てました。 その線に沿い、32年4月政府よりの補助金を受け、この設計開発の中心となる財団法人「輸送機設計研究協会」が発足しました。

 協会ではこの年の6月には「欧米中型輸送機調査団」を編成して、ヨーロッパに派遣し調査、研究を重ねた結果、33年12月、日本飛行機杉田工場にモックアップを完成させました。 当時ダグラスDC-3型機に乗務していた私は、同僚パイロットと数名で調査のため見学に行きましたが、その立派さに驚かされました。

 エンジンはロールスロイスのターボプロップ、機内は与圧式、客室はとても広く、座席は通路を挟んで2列と3列、60人乗りで、1200メートルの滑走路で離着陸できるということでした。

 コックピットも広く地上滑走のとき側面下がみえにくいので、座席が窓側へスライドできるようになっていました。

 当時定期便の就航している飛行場は、幹線の空港を除くと、ほとんどの空港は滑走路の長さが1200メートルしかなく、ローカル線の機材は30人乗りのDC-3が主力でしたので、これが就航すれば、輸送力は大幅に増えることになるわけです。 このモックアップは後に広胴型と呼ばれ、実際に作られたのは通路の両側2列ずつのもので、現在では64席の改装型が多くなっています。

 この飛行機は「YS-11」と呼ばれていましたが、名前の由来は輸送機設計の頭文字をとり「YS」と名付け、各種の翼型とエンジンにそれぞれ番号をつけ、いろいろな組み合わせで研究した結果、1番の翼型と1番のエンジンの組み合わせに決まり、「11」としたということです。 正式の呼び名は、「YSじゅういち」ではなく「YSいちいち」であるという説明を受けましたが、実際に「YSいちいち」と呼んでいる人はほとんどいないようです。

 34年6月に政府と民間6社(三菱重工、川崎航空機工業、富士重工、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機)による、共同出資の「日本航空機製造(株)」が誕生し、輸送機設計研究協会の業務を引き継ぎ、具体的な設計と、試作機の製作が始まりました。 それから約3年後、37年8月に名古屋空港に於てYS-11試作第1号機の初飛行が実施され、続いて12月に第2号機がロールアウトし、この2機で約2年間飛行試験が続けられ、型式証明取得まで約1000時間程の飛行試験を実施しています。

 全日空ではいち早く37年10月に20機購入の予備契約を結びましたが、これは試作第1号機が飛び初めて間もなくの時期です。YS-11導入のため技術要員として整備士が1名名古屋に出向しましたが、パイロットでは藤村楠彦機長と私の2名が担当し、頻繁に名古屋へ行っては飛行試験に同乗したり、グランドスクールを受けたりしていました。

 飛行試験も順調に進んだわけではなく、かなり多くのトラブルがありました。1番大きな問題点は横安定の不足で、この解決のために主翼の上反角4度19分を2度増やし、このため主脚の取りつけも改修しています。 操舵性についても不具合が多く、補助翼、方向舵など何度か改修し、バフェットの対策としてはエンジンナセル、主翼のつけねに大きなフィレットが取りつけられ、少しずつよくなってきましたが、1ケ所改修すると何回も飛行試験を行い、細かなデータを取り、それを解析検討するという作業が続き、担当者の苦労は並み大抵のものではなかったようです。

日航製式 YS-11

YS-11の三面図

全長(m)

全幅(m)

全高(m)

26.30

32.00

8.98

座席数(名)

操縦士

スチュワーデス

65(4列)

2

2

最大離陸重量(kg)

最大搭載可能有償重量(kg)

搭載燃料量(kl)

25,000

6,200

4.96

最大運用限界高度(m)

巡航速度(km/h)

航続時間(時間)

航続距離(km)

6,100

450

4

1,200

離陸滑走路長(m)

着陸滑走路長(m)

1,190

1,080

エンジン

ロールス・ロイス社

ダートMK543-10、10K

(2775SHP+推力336kg)

×2基

製造国

製造会社

 

日本

日本航空機製造会社

 

就航年月日

初就航路線

 

昭和40年9月20日

大阪〜高知

 

 39年7月に、2号機を使っての実用試験が150時間程実施されました。 藤村機長と私はこの実用試験を利用して慣熟飛行訓練を受けましたが、この時期は旅客機としてほとんど完成していて、操縦も楽で、いつも軽い状態で飛行していたせいか、性能も素晴らしく良いように感じました。 実用試験が終わるころ、飛行性能試験の残りも1号機によって全て終了し、8月25日に型式証明書が交付されています。

 全日空では早くから、東京オリンピックの聖火を、9月9日に、沖縄から札幌までYS-11で空輸するという計画をたてていましたので、試作第2号機を全日空仕様に塗装し直し、二人が乗務することになりました。

 8月31日午前中に、2号機の耐空性証明(1機ごとに飛行審査をする)取得のための最後の飛行試験が終わり、午後我々の限定変更(パイロットの機種毎の乗務資格)審査が終了し、整備点検、聖火台の取りつけ、聖火を点す容器に点火してのテスト飛行など忙しい日々を過ごし、ようやく出発準備も整い、9月8日に沖縄へ空輸することができました。

 9日午前7時、盛大な見送りを受けて那覇空港を出発。途中航空自衛隊機の歓迎を受けエスコートされながら最初の着陸地鹿児島空港に着陸。 次いで宮崎空港に到着し、それぞれに聖火を移しましたが、目的地の札幌まで飛ぶには燃料が足りないので、途中名古屋空港にて給油し、札幌に向かいました。 日本海側には寒冷前線があって、新潟付近より雲中飛行となり、激しい揺れと着氷が続きましたが、幸い津軽海峡付近で天候は回復し揺れも次第におさまり、ほっとしました。 千歳空港でも、自衛隊機のエスコートを受け盛大な歓迎のなかを定刻に到着、最後の聖火をおろし無事大任を果たすことができました。

 この光栄ある聖火の空輸を成し遂げた感激と喜びをかみじめながら、乗員一同は休む間もなく千歳空港を離陸、名古屋へ向かいましたが、この程度の速度(約450km/h)の飛行機ではかなりの強行軍でした。

 40年3月、量産第1号機が航空局へ納入されましたが、その頃には国内外より数多くの発注を受け、生産ラインも活況を呈していました。 全日空が1番機を受領したのは40年7月ですが、この時にはすでに、25機のF-27フレンドシップ(客席数40)がローカル線に稼働していました。当初の予定では38年度に型式証明取得という計画になっていたそうですが、1年あまり遅れたことになります。計画通り完成していれば全日空の機材計画もYS-11の生産機数も大分変わっていたこととおもいます。

 45年頃から日航製の赤字問題がクローズアップされ、46年に通産省は、180機をもって生産中止と決定しました。

 最後の量産機が49年2月に防衛庁に引き渡されましたが、生産機数は試作機2機、量産機180機、その内106機が国内向け他は国外へ輸出されています。 別に強度試験用に2機作られ、01号機は破壊強度試験に使用。02号機は繰り返し荷重試験に使い、その後復元されて一時は羽田空港のターミナルビルの屋上に飾られ、また試作第1号機は、成田に昨年開館した航空科学博物館に展示されています。

 YS-11は現在(平成元年9月現在)でも国内で約60機が健在で、その内約50機が数社でローカル線に飛んでいます。 開発当時の1200メートル級のローカル空港も、次々と滑走路が延長され、或るいは別の場所に大きな空港が作られ、それに伴い逐次ジェット機が投入され、出番もだんだん減ってきているようですが、離島を結ぶ路線などではまだまだ大いに活躍しています。

 この開発、生産に携わった人々の汗と苦心の結晶ともいうべき、戦後唯一の国産旅客機「YS-11」が、いつまでもいつまでも大空を飛び続けて欲しいものです。

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第4号 1990年 3月31日発行

「未知への夢」

理事:渡辺 勇

 

 小学生の頃私は宇宙の話や、特に火星人の話など聞いた時は夜も眠れない程興奮したものでした。.未知の世界への憧れとでもいいましょうかとにかく遠い世界を見てみたいという強い希望を持ちました。
 戦中、戦後の日本航空に身をおき太平洋や南支那海、北極圏などを何百回か往復しました。そして仕事の大半は羽田と成田を基地にしたものでした。
 このたび航空青少年団羽田支部のおさそいを受け、お手伝いすることになりました。
 未知の世界への夢を抱き、無限の可能性を秘めた青少年の皆さんの何かのお役に立てれば大変幸せと思っております。(H2.2.12)

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第4号 1990年 3月31日発行

「方角の話」@

団長:野原国治

 私たちは、とおりがかりの見知らぬ人に池上駅だとか、羽田小学校に行くのはどちらへ行ったらよいのですかというように、ときどき道を聞かれることがあります。そんな時あなたがたは、どのように教えますか。きっと目に見えるビルだとか高い煙突だとかを目標にしたり、あるいはこの道をまっすぐ行って何本目かの道路を左にまがるととか、右にまがると行けますと云うように教えると思います。
 ところが何も目標となるものがない例えば広い草原だとか、砂漠のような中だったり、また、陸地も島影も見えない海の上だったら人に教えるどころか自分だってどちらへ行ったらよいのかわからなくなってしまいます。

 飛行機が飛行場を飛び上って下の陸地が見えるうちはとも角、すぐ雲の中に入ってしまったり、この頃のジェット機のように1万メートル以上も高く上ってしまうと、どこの陸地の上を飛んでいるのかさえわからなくなってしまうのです。そして大阪や札幌は、どちらの方角なのか困ってしまいます。

 しかし実際には、大阪や札幌、あるいは10時間以上も何も見えない大平洋の上を飛んでアメリカのサンフランシスコの飛行場に間違いなく到着できるのです。それは、皆さんも知っていることと思いますが、飛行機には羅針盤という方角を教えてくれる計器が積まれているからなのです。皆さん、北と南の方角を指す小さな磁石を見たことがあると思います。また、釘や針がねなどを吸いつける磁石で遊んだこともあるでしょう。これら二つの磁石はもとはと云えば同じものなのです。
え、ほんと!と疑われそうですね。それではその話は次号で。(編者注:第6号へ続く)

 

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第6号 1990年11月30日発行

 

「方角の話」A

団長:野原国治

 人々と磁石の出合いは古く、紀元前十数世紀の頃からと言われています。当時の磁石は、現在私達がよく目にするような、鉄で作られたものではなく、単に鉄などを引きつける鉄鉱石(磁鉄鉱)を磁石と言っていたのである。昔、中国の慈州と言うところで、この良質の磁鉄鉱が産出されたところから、産地の名にちなんで、磁石と呼ばれるようになったと伝えられています。また、ヨーロッパ地方では、ギリシャのマグネシア地方が、その主なる産地だったことから、英語名のマグネットの語源になったと言われています。

 私達が子供の頃、遊びに使った磁石は、鉄で作られていて、馬蹄型(馬のひづめのような形)をしていましたが、用途としては、砂鉄の選鉱用とか、通信機の部品用などに限られていたものだったが、近年、ラジオ、テレビ、VTR、OA機器やエレクトロニクスなど幅広い分野に利用されるようになって、そ
の有用性が認められるようになって来ると、その用途に応じて、ぃろいろな材質や形が研究され、最近では、「フェライト」と言う酸化鉄をふくんだ何種類かの粉状の材料を、工場で焼き固めて作られた磁性材料を使って、使用目的にかなったものが、安価に、しかも大量に生産されるようになってきました。

 磁石は、鉄、ニッケル、コバルトなどを引きつける性質の他に、磁石と磁石を近付けると、お互いに引きつけ合う端と、相反発し合う端があることからもわかるように、二つの極(N極とS極)を持っていること。磁石を二つに切ると、その一つ一つが、それぞれ二つの極を持った磁石になっていて、さらに、
それらを半分に切ると、四つの磁石になるように、いくら細分化しても、その一つ一つが、磁石になっていること。磁石に鉄片や針ななどをこすりつけると、その鉄片や針も磁石になること(これを磁化されたという。)などいろいろな性質がありますが、とりわけ際だった性質として磁化された針には、南北を
指す1旨向性があるということです。

 中国には、盤の上に物を投げ、それが指し示す方向によって、未来を占うという術が伝っているそうですが、投げられる物が磁石で作られているため、常に一定の方向(南北の方向)を指したという話、また、ある占い師は、磁石でこすって作った細い鉄の針を、木で作った小さな舟に乗せておいて、水を入れた大きなたらいに浮かべ、磁石が常に南北の方向を指す性質を利用して、集まったたくさんの人々を、巧みな話術をもって煙にまくと言ったような話などが、中国の古い文献に見られるそうである。この話からもわかるように、磁石には、南北方向を指す指向性があるということは、古くから知られていたようである。昔、中国の黄帝と言う人が、紀元前二千年以上も前の戦争で、指南車という道具によって、濃い霧の中で正しく方向を定め、みごと敵を打ち破ったという話が伝わっていて、中国では、すでにこの時代から、磁石の持つ指向性が実用化されていたのではないかとの見方もあるが、伝説の域を出ていないというのが、一般的な考え方のようである。

 「はねだ」第4号の「方角の話」の中で鉄などを引きつける磁石も、オリエンテーリングなどのときに使う方角を知るための磁石も、同じものであると書いたが、方角を示す磁石の中に入っている針が、鉄などを引きつける磁石そのものなのです。

「方角の話」は、次号に続きます。

 

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第7号 1991年3月31日発行

「方角の話」B

団長:野原国治

 前に書いたように、占い師が鉄の針を磁石でこすり磁化させて本の舟に乗せ、その舟が南北を向くようにした発想は、とりもなおさず水羅針盤の考え方で、かなり古くから実用化されていたようである。

 羅針盤についての文献として最も古いものは、十二世紀の後半に書かれたもので、羅針盤の指向性に関してはもちろんのこと、曇り空(羅針盤が実用化される前は、太陽や星などの天体の位置を測って、船のコースを決めたり、自分の船の位置を知ったりする航海法であった。)であっても、船のコースを決めることができるとか、支点で支えられた磁針、つまり羅針盤についての構造に関する記述もあって、この時代になると航海には、一般的に羅針盤が用いられるようになっていたものと考えられる。

 このように磁石のもつ指向性を利用した羅針盤が実用化されてくると、人々は、より正確な方角を指示してくれるものを求めるようになってくる。そしてより正確な方角を指示してくれる羅針盤が出現することになって、はじめて羅針盤の針が地球の真の南北(実際の地球は、やや南北におしつぶされたような形になっているけれども、実用上は、幾何学的な球形と考えて差し支えない。この地球が、一日に一回転しているわけであるが、この回転軸が、地球の真の南北である。)を指示しないということがわかってきた。次の図−1に示すように、磁針と日時計を組み合わせて、正確に測定してみると、明らかに差があることが証明されるようになった。この真の北と磁石の指す北(磁北という。)の差のことを偏角(または偏差という。)

図−1 日時計による偏角の測定

 十五世紀の後半につくられたドイツの道路地図には、偏角が、東偏(真北の東に磁北があること。)11° 1/4と記入されているものがある。そして、十五世紀の末のコロンブスによるアメリカ大陸発見の際に、この偏角の値が場所によって異なることに気付いたことは、よく知られている事実であるが、十六世紀のはじめに、ハルトマンという人は、ローマでは、この偏角は東偏6° であると記録に残している。日本では、ところによって異なるが、およそ西偏(真北の西に磁北がある)6° 〜7° 位である。

(次号に続く)

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第8号 1991年 7月31日発行

「方角の話」C

団長:野原国治

 また、この偏角は、年々少しづつではあるが、変化することも判ってきた。
この偏角については、その後、地球上のいろいろな地点で測定され、図−2に示すような偏角分布図がつくられている。
また、羅針盤作成の過程で、まず鉄の針を作り、それを重心位置で支え、水平になるようにしておいて、この針を磁化させて、再び支えに乗せると、磁北側に傾くということがわかってきた。この針が傾く角度のことを伏角といっているが、これはイギリスの船乗りで、羅針盤の製作者でもあった、ロバート・ノートンという人によって発見されたと云われている。 

(方角の話は次号に続きます)

図−2 偏角分布図(1965年)

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第9号 1992年 1月31日発行

「方角の話」D

団長:野原国治

 また、羅針盤作成の過程で、まず、鉄の針を作り、それを重心位置で支え、水平になるようにしておいて、この針を磁化させて、再び、支えに乗ると、磁北の側に傾くということが判った。この針が傾く角度のことを伏角といっているが、これは、イギリスの船乗りで、羅針盤の製作者でもあった、ロバート・ノートンという人によって発見されたと言われている。そしてこの伏角は、地球の赤道上では、0度(磁針が水平になっている。)で、北に行くはど大きくなることが知られるようになった。この伏角に疑間を持ったウイリアム・ギルバートという人が、球形の磁石をつくっていろいろ実験を試みた結果、1600年出版の彼の著書「磁石について」の中で、地球自身が巨大な磁石であると結論づけている。

 この偏角、伏角に全磁力を加えて、地磁気の三要素と呼んでいるが、その後十九世紀に入って、ガウスという人が、地球の回転軸に対し、巨大な地球磁石の磁軸(磁北極と磁南極を通る軸のこと。)は、11度傾いていることを発見した。図−3は、地球の回転軸と磁軸の関係および磁力線の分布を示したものである。

 ここで飛行機に積まれている羅針盤について考えてみよう。飛行機が目的地に飛ぼうとするとき、その目的地への方角を決め、その方角に真っすぐ飛ぶための基本的な計器が、羅針盤である。図−4に示すような羅針盤が、計器盤のほぼ中央部に取りつけられていることは、訓練のときに乗ったGAT-1シミュレーターで知っている通りである。その構造は、図−5に示されているように、羅針盤のなかには液体(アルコール)が入っている。その液体のなかで、水平に保たれているフロートがあって、フロートの周囲がコンパスカード(北を0度として、360度までの目盛りがあるもの)になっている。フロートの下側には、磁針が二本取りつけられていて、常に北(磁北)をさしている。飛行機が方向を変えると、パイロットには、中のコンパスカードが回るように見えるけれども、実際は、コンパスカードは止まっていて、パイロットが乗った飛行機が回っているのである。

 次に、飛行機がある地点から、目的とする地点まで飛ぶために、方角を決めたり、距離を測るのに必要な地図について考えてみることにしよう。

地図は、地球表面の地形などを、平面上に表したものであるが、もともと、バスケットボールのように、球形である地球の表面(球面)を平らな紙(平面)に、正確に写しとることは不可能なのである。どこかを広げたりどこかを縮めなければならないのです。

地図を作るのには、いろいろな図法があるが、航空図は、地球の表面上で交わる二つの線のなす角が、地図上で交わる二つの線のなす角と同じ(これをコンフォーマルという)でなければならないこと。(図−6参照)および航空図上で測った距離が、地球の表面上の距離と同じでならなければならないことなどの必要条件を満たす図法すなわち、円錐投影法によって、航空図が作られるのである。

 基本円錐投影法は、一本の標準平行線(北極から等距離の点を結んだ線=緯線)に接する円錐に、地球の中心から地球表面を投影する図法であるが、標準平行線から離れるに従い、誤差が大きくなる。そこで、図-7に示すように、二本の標準平行線を設定して投影する図法によって作られるのが、ランバート図で誤差は極めて小さくなる。このランバート図法によつて作られた地図が、一般的に航空図として使用されている。この航空図では、コンフォーマルの条件を満足し、かつ、距離の誤差も極めて小さく、さらに一定の目盛人で、実用上正確な距離が測れるという特長を持っている。

図−7

図−3 磁力線の分布(1974)

 

図−4

 

図−5

 

図−6

 

 この航空図上で、A点から、B点への方角(方位と同じ意味)を測るときは、この二つの地点を結ぶ直線を引き、その線のほぼ中間を通る子午線(地球を、地球の北極及び南極を含む平面で切ったとき、その平面と地球表面が交わる仮想の線で、イギリスのグリニッチ天文台を通る線を0度とし、東へは東経、西へは西経として、それぞれ180度で終わる。)と交わる角度を測り、真北を0度とする時計回り方向の角度が、A点からB点への方位ということになる。真北を0度としているので、この方位を真方位という。

 東京から大阪への方位は、およそ真方位で258度である。飛行機に積まれている方位を示す計器は、羅針盤である。羅針盤の示す方位は、磁方位(磁北を0度とし、時計回り方向に360度で表わす。)である。真方位と磁方位の間には差があり、これを偏角といい、偏角は、場所によりその値が異なり、年変化することなどは、前に書いたとうりであるが、航空図には、この偏角が等偏角線として記入されている。

 実際に東京から大阪に飛ぶときは、その方位(真方位)258度に、航空図に記入されている偏角、西偏7度を加え、(偏角が東偏のときは(−)、西偏のときは(+)する)真方位258度を磁方位265度になおし、羅針盤で、265度の針路で飛べば、大阪に到着できることになる。

 航空図上で、A点からB点までの距離を求めるときは、子午線上に北緯30度とか、北緯40度とかの緯度を示す緯線(地球の北極または南極から、同じ距離の地点を通る仮想の線、即ち北極または南極を中心とする同心円が、地球表面と接する線で、赤道を0度とし、北へは北緯、南へは南緯として、それぞれ90度で終わる。)があり、その緯度がさらに度(1度は、60分)、分の単位まで細かく、子午線上に目盛られているので、AB間の長さを、この目盛りにあてはめれば、その距離は、何浬(1浬は、約1852メートル)と読み取ることができる。このように航空図では、距離は、メートルではなく浬で表される。

 本道からそれたが、羅針盤には、偏角の他に、伏角(磁石は、常に磁北−磁北は、カナダの北の北極海にある−を指す。)がある。この伏角があるということは、飛行機が磁北に近付くに従い、伏角が大きくなって、方向を指す力が弱くなり、磁北の真上に来ると磁石は、真下を向いてしまって、方角を示す計器としての機能が、失われてしまうということである。

 このように羅針盤には、方角を示す計器としては困った問題があるので、この欠点を補うものとして、方向指示器という計器が併用されている。この計器は、回転体(ジャイロ)は、宇宙空間に対して常に一定の方向を保つ特性を利用したものであるが、この計器もまた、宇宙空間に浮かんでいる地球は、一日に一回転するため、一時間に15度、4分間に1度づつずれてしまうという欠点があって、飛行機に積む方向を示す計器として満足できるものは、なかなか発明されませんでした。

 最初に人工衛星で宇宙に飛び出した人は、ソ連のカガーリンという人でした。私は、サンフランシスコの日本航空の乗員たちが滞在していた、ホテルのコーヒー・ショップで、そのニュースを聞いたのですが、その時の鮮烈な印象は、決して私の脳裏から消え去ることはないでしょう。そして初めて月に着陸したアメリカの宇宙船の映像は、これも滞在先のパリの街かどのテレビでみました。SFの世界が、いきなり現実のものになった驚きもまた、忘れることのできない思い出となっています。科学の進歩、発展は、とどまることを知らないかのようであるが、人工衛星や宇宙船が現実のものとなったのは、めざましいばかりのコンピューターの開発があって初めて可能になったのである。

 そこで宇宙船に積まれたINS(慣性航法装置と言われている。)について、簡単に説明することにしよう。INSは、加速度検出器、ジャイロ(回転体)、コンピューターの三つから構成されています。この加速度検出器について付言すると、遠心力を説明するときに、よくバケツに水を入れて振り回しても水がこぼれないのは、遠心力によるものであると言うように説明されるが、この加速度検出器は、LPレコード盤が、30分間に一回転する位、ゆっくり回っているときの遠心力さえも検出できるほど、精巧なものであると言われています。図-8に示すように、ブラットフォームというものに、二個の加速度検出器が、互いに直角になるように固定されていて、その各々にジャイロが固定されている。加速度検出器は、地球の重力を検出して、プラットフォームを水平にする。つぎにジャイロが、地球の自転(地球が自分で回っていること。)を検出して、プラットフォームを真北に向ける。この準備のために、出発前に30分位の間静止していなければならないが、この準備が終わって動き出すと、どちらの方角にどれだけ動いたかを、加速度検出器が検出し、INSに組み込まれている独自のコンピューターで、複雑な計算をして真方位だけでなく、速度、風向風速、目的地までの所要時間など、いろいろなデータをデジタル方式(数字)で、瞬時に提供してくれるのである。

 宇宙船を月に飛ばせるためには、砕けていうならば、静岡県のJR浜松駅のプラットホームにいるハエの目玉を、東京駅から狙って射抜くほどの極めて正確な航法装置が必要であると言われていましたが、このINS(Intertia Navigation System)の開発によって人類の夢が実現されたのである。同時にパイロットにとって大変やっかいな問題だった羅針盤の「偏角と伏角」の欠点も一挙に解決して呉れたのである。

 人工衛星や宇宙船のために開発されたINSは、当初は大変高価なものだったが、最近では安価になってきて、軽飛行機はともかく、ほとんどのジェット機に搭載されるようになって、ようやく羅針盤によって方角を決めて飛行していた不便さから、解放されることになったのである。

− おわリ −

図−8

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 第3号 1989年11月30日発行

「空、飛行機、そしてパイロット」@

−空、この不思議な世界(1)−

日本航空機長 上田恒夫

 はじめに私は、日本航空のパイロットです。 ジャンボを操縦して、アメリカに、東南アジアに、そして日本国内の各地に飛んでいます。 そんな毎日の生活の中から、私が見たもの、経験したこと、思ったことをあますことなく、青少年の皆さんにお伝えしたいと思い、筆を取りました。 できる限り長く、書き続けて行きたいと思います。 また、皆さんからの質問にも答えてゆきたいと思います。 この紙面が、皆さんと私の交流の場になればと、そんなことを願っています。

 私がパイロットになったのは、今から25年前のことです。 それ以来飛び続けてきた空を、改めて考えてみると、空は私にその本当の姿を教えてくれるどころか、ますますわけのわからない世界として、私を混乱させるのです。 大昔からある空を、場面、場面で見ると、それは様々な色を使って描いた、絵のように見えます。七色に散りばめられた、ため息をつきたくなるような美しい絵のように見えることもあれば、黒一色の闇にしか見えないこともあります。

 ある子供が、「空は神様のお絵書帳」と言ったのを聞いたことがありますが、地上にいて、たまに空を見ると、私もそんな気がしてきます。 しかし、パイロットとして空に飛び出すと、空は生き物のように思えてくるのです。 それもただ一匹の生き物ではなく、たくさんの生き物が住む世界なのです。 飛行機が飛ぶ道をならしてくれる、やさしい生き物もいれば、飛行機をゆらしたり、強い雨や風で着陸をむづかしくするイタズラ好きの生き物もいます。 皆さんの中には「そんなのウソだーい」と言う人がいるかもしれませんが、時々飛行場に強い下降気流を吹かす雲の研究をしている、シカゴ大学の藤田博士は、アリ喰い型の雲をレーダーで見つけたのです。(図1、2)

図-1

図-2

 科学が進歩し、人間は何でも好きなことができるようになっていますが、パイロットばかりでなく、すべての人々が空に学ばなければならないのは、空は生き物のように常に活動していて、時々とてつもない大きな力で人間を苦しめる、ということではないでしょうか。 つい先日も、台風の力で下校途中の小学生が増水した川に流されてしまいました。 子供ばかりではありません。 ゴルフを楽しんでいた大人が雷に打たれたり、気象を甘く見たパイロットが着陸に失敗したり、私たちの毎日の生活の中に、空から大きな力によって起こされた悲しいできごとは、まだまだ数多くあります。

 こう考えると、人間はある面では、大昔の原始人たちと、少しも変わっていないのかもしれません。 嵐がきたとき、原始人たちは洞くつの中で、親子が抱きあって嵐の恐ろしさにおそれおののき、ただ嵐が過ぎるのを願っていたようですが、これが自然に対して人間にできるただひとつのことかもしれません。 でも、親子の励まし、友だち同志の励まし、それは自然の力以上に大きな力になることも、忘れたくないことです。

 

飛行機の揚力の発生

左の図は、飛行機が飛んでいるときの主翼と空気の流れを断面でとらえたものです。主翼の上部の加速された気流は、下部の気流よりも圧力が低くなります。この気圧の差によって揚力(上向きの力)が発生するのです。

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 第4号 1990年3月31日発行

「空、飛行機、そしてパイロット」A

−空、この不思議な世界(2)−

日本航空機長 上田恒夫

 平成元年も終ろうとしている昨年の12月31日、私はアラスカのアンカレッジから成田へ向う貨物便の乗務に就いていました。 現地時間の真夜中(日本ではまだ12月30日夕方)ホテルを出て、空港へ向う道の両側には、クリスマスのかざりが雪にまぶしく反射していました。気温はマイナス15度、外気はこの寒さで洗われたように新鮮で、星までもがいつもと違って見えるほどでした。 

 空港に近づくにつれ、家並みはまばらとなり、暗闇が広がって来たとき、「今夜もオーロラが出ていますね」と、副操縦士のH君が北の空を指して私に教えてくれました。 それは私にとって、地上から見る始めてのオーロラでした。 それまで、飛行機からは何度も見たことはあったのですが、パイロットになって25年もの間、地上からオーロラを見たことは一度もなかったのです。

 さて、オーロラとは何なのでしょうか。 そしてどんな見え方をしているものなのでしょうか。 まず、オーロラは北極や南極の高緯度地方に発生する、白っぽい光の壁みたいなものと考えてもらえば良いでしょう。 ピンクや黄色をしたオーロラもあるようですが、私はカラーのオーロラを見たことはありません。

日本航空「気象ハンドブック」より

 次にオーロラは、ジェット機が普通飛んでいる一万メートルの高度より十倍以上も高い高度で光を放っていて、しかもいつもゆらゆらと動いているのです。 それはちょうど、暗闇で風になびいているレースのカーテンの下から懐中電灯の光を当てたときのような見え方をしています。 少しむずかしくなりますが、科学の本には、「オーロラは、太陽からの帯電粒子が地球の磁場により高緯度に集まり、超高層で発光する現象」と、書かれています。

 これくらいお話しすると、オーロラについて、かなりわかてもらえると思いますが、実物を見たら、きっと皆さんもいろいろな感想を持たれることでしょう。 美しいと言う人もいるでしょうし、何か無気味だと言う人もいるでしょう。

 このように、自然は見る人の心の持ち方によって、まったく違ったものに見えてくることがあるのです。 だから、私は空が好きなのです。 よく注意してみると、空はいつも変化していて、私をたいくつさせることはありません。

 最初にお話した、貨物便の乗務のときもそうでした。 アンカレッジを離陸して上昇中、私は操縦室の窓ガラスに、ときどきかすかな光線が走るのを発見しました。 雲もないし、着陸灯も消しているのに変だなと思っていると、何度も何度も光線はあらわれるのです。 オーロラが、飛行機が飛ぶような高度に発生することはあり得ないことです。 しかし、オーロラは光です。 反射したり、曲ったりすることはあるでしょう。 光線になって、地上に降りてくることだって考えられます。 だから、私が見たものは、オーロラのビームだったのかもしれません。 オーロラのビームのシャワーを浴びて、私の乗務するジャンボの貨物機は、アラスカの上空を飛んでいたのでしょう。

 後になって、こんなことを考えていると、また空が恋しくなってきました。次から次へと、限りない魅力を与えてくれる空は、本当に不思議な存在です。 子供の頃、私は何時間でも空や、雲や星をながめていることがありました。 今、一万メートルの上空から同じものを見ていると、わずか三十年の間に、人間はこんなに世の中を変えてしまったのかと驚きを感じると共に、人間にも不思議さを感じないではいられなくなるのです。

 

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 第5号 1990年7月31日発行

「空、飛行機、そしてパイロット」B

−古い飛行機と新しい飛行機(1)−

日本航空機長 上田恒夫

 先日、香港へ飛んだ時のことです。 飛行機が大好きという少年がコックピットに来て、私たちにこんな質問をしました。 「この飛行機は、日本航空が買った最初のジャンポでしょう。 機体にJA8101と書いてあったからわかったんだけれど、どうしてこんな古い飛行機をいつまで飛ばしているんですか。 事故は起こらないんですか。 おじさんたち、こんな古い飛行機を飛ばしていて、恐くわないんですか。」確かに、JA8101は20年前に買った飛行機で、もう2万1千回もフライトしているのですが、この飛行機は、20才の青年のように元気なのです。 ですから、まだしばらく飛び続けることになるでしょう。

 でも、古い飛行機を心配する人たちに、今回は飛行機の年令について説明することにしましょう。 今年の春、日本の国内線を飛んでいたJA8120とJA8121の2機のジャンポ機が日本航空からアメリカの会社に売られてゆきました。 人間の年令で言えば、まだ16才なのですが、フライトした回数は、短い国内線を飛んでいたために、JA8101よりはるかに多いのです。 同じく国内線を飛んでいたJA8117とJA8118も、かなり前に売られてゆき、1機は、NASAのスペース・シャトルの輸送に使われています。

 ここで皆さんはおわかりになったと思いますが、飛行機は1回飛ぶと、1歳年をとったことになるのです。 国内線を飛んでいる飛行機が1日に10歳近くも年をとるのに対して、長距離を飛んでいる飛行機は、1日に1歳しか年をとらないのですから、国内線の飛行機の方がどんどん古くなってゆくのです。 訓練に使われると、飛行機は1日に20回も30回も着陸するので、1週間もすると、たちまち200歳も年をとることになります。

 でも心配はいらないのです。 ジヤンポは、大きな整備をしなくても、7万歳まで安全に飛ぶように設計されているのです。 それに加えて、航空会社は、年に1度、飛行機をほとんどバラバラに分解して点検し、組立て直す整備をしています。 この整備をすると、飛行機はまたゼロ歳に戻ると言っても良いほど、完べきな作業をやるのです。

写真-1 バラバラにされたコックピット

写真-2 点検中の2階席

写真-3 組立作業中の作業員

 このように、飛行機は整備してやれば、何年でも使えるのですが、次々と性能の良い飛行機が作られてゆくこと、長年使っていると、だんだん整備にお金がかかるようになること等々から、航空会社としては、やはり新型機を買わなければならなくなってくるわけです。

 皆さんもすでにおわかりのように、今年の4月から新型のジャンボが日本航空の路線を飛びはじめました。 この飛行機はいままでのジャンボよりも、もっと航続距離が長くなっているので、ニユーヨークから東京まで今まで以上に楽々と飛んでくることができるようになりました。

 私も1日も早くこの飛行機を操縦してみたいものですが、その夢がかなうまで、今までの古い(?)ジャンボを大切に飛ばしてゆきたいと思います。

 

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 第6号 1990年11月30日発行

「空、飛行機、そしてパイロット」C

− 古い飛行機と新しい飛行機(2)−

日本航空機長 上田恒夫

 前回は、古い飛行機でも整備をすると新品のようになることをお話ししましたが、実際ァメリカではもう日本の国内では見られなくなったダグラスDC−8型機や、ボーイング727型機が毎日のように飛んでいるのを見ると、なるほどと、わかってもらえることでしょう。

 でも、航空会社はいつまでも古い飛行機を使えるわけではありません。 技術の進歩によって、より燃費の良い飛行機、より静かな飛行機が次々と生産されているので、いつかは新型機に変えてゆかなければなりません。 あと2、3年すると、アメリカでも古い飛行機は姿を消すといわれています。

 これからどんな飛行機が出てくるのか、皆さんも興味があることでしよう。 でも、外から見て、ハッキリと違いがわかる飛行機が出てくるのは、21世紀になることでしよう。 今、次々と日本の航空会社に入ってきている新型ジャンボ機(B-747-400)も間もなく出てくるMD-11型機も、今までの飛行機を改良した飛行機なので、良く見ないと、外からは違いはわかりません。大きな違いはというと、コックピット(操縦室)の中の計器が、テレビの画面のようにブラウン管になって、たくさんのコンピュータによって飛行機が飛ぶようになったことです。(写真−1、2)

写真-1:1970年就航747

写真-2:747-400

図-1

 次に大きく違うのは、エンジンなのですがこれは外からはまったく違いがわかりません。 前と同じ大きさなのに、最初に1個で20トン弱の推力しか出せなかったエンジンが、今では30トン以上も、そして間もなく45トンまで出力が出せるようになってきているのです。 ですから、将来出てくる飛行機は、大型でも2発のエンジンで十分になるのです。(図−1)

 次に、翼の先に付いているウイングレットについてお話ししましょう。(図−2)翼の先を上に曲げたような、垂直の板のように見えるウイングレットは、これからの新型機にはどれにも取りつけられています。 これも技術の進歩によって、丈夫で軽い材料で作れるようになって生れてきたものですが、このような板を付ければ、翼の抵抗が少なくなって、燃費が良くなることは、かなり前から知られていたことなのです。 くわしい理くつは、皆さんが高校生になったときにでも、物理の時間で勉強してください。

(図−2)

 最後に、皆さんに一番関係のある客室についてお話ししましょう。 前に書いたように、エンジンの進歩によって、今では世界の主要都市に日本から直行できるようになりました。 ということは、飛行機の中で10時間以上も過ごすことになるので、客室はより快適でなければなりません。

 新しい飛行機では、座席を大きくしたり、座席と座席の間のスペースを広くしたり、座席に個人用のテレビを取りつけるなど、いろいろな工夫がなされています。 来年からは、日本航空の国際線の飛行機の機内から、世界中のどこにでも電話ができるようになります。 そうすると、近い将来には空飛ぶオフィスや空飛ぶ応接間(図−3)が生まれることも考えられるのです。

 次回は、未来の飛行機を紹介してみたいとおもいます。

(図−3)

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 第7号 1991年3月31日発行

「空、飛行機、そしてパイロット」D

−古い飛行機と新しい飛行機(3)−

日本航空機長 上田恒夫

 皆さんが大人になったとき、一体どんな飛行機が飛んでいるか、きっとだれもが興味もっていることでしょう。

 そこで今回は、未来の飛行機についてお話ししてみたいと思います。 といっても、技術が目のまわるような速さで進歩している今日未来を予測することは、口で言うほど簡単なことではありません。 ですから、これからお話しすることは、ひとりのパイロットの想像と考えて読んでください。

 さて、未来について考えるとき、ひとつだけ自信をもって言えることがあります。 それは、飛行機がますます人間の生活にとって、大切な乗り物、あるいは物を運ぶ機械になってくるであろうということです。 そして未来の飛行機は、使う目的によってかなり形が違ったものになってくるはずなのです。

 例えば、東京とニューヨークを今の半分以下の7時間(もっと先には2時間)で結ぶ超音速旅客機は、三角形の翼をもつ飛行機から次第にロケットのような形になってくるかもしれません。(図−1)

 次に、スピードはそれはど速くなくても、もっと性能の良い飛行機(燃費が低く、空中で小回りがきく飛行機)を開発してゆくと、その姿は鳥のような形になってくるかもしれません。(図−2)

図-1

図-2

図-3

 皆さんはこれまで、鳥についてくわしく調べたことがありますか。 鳥について知れば知るほど、きっとその羽や体の構造があまりにも良くできていることに改めて驚きをおぼえることでしょう。 そればかりではなく、あの小さな胃袋にわずかな食料をつめただけで、どうして海を渡ったり、あれだけの速度で飛ぶエネルギーが出せるのかも、不思議なことです。 人間は、もっと鳥について調べ、学ぶ必要があるかもしれません。

 旅客機についてはこれくらいにして、これから急速に開発が進められると予想されている、貨物機についてお話ししてみたいと思います。

 貨物機は今でさえも、もう私たちにとって無くてはならない飛行機になっています。 外国から日本に毎日のように貨物機で運ばれてくる食料品を見れば、すぐにわかってもらえると思います。 魚、野菜、果物で、空港の貨物ビルはあふれています。 そしてこれから、飛行機での輸送が安くなれば、貨物機で運ばれる物資はもう限りなくと言って良いほど、増えてくることでしょう。 ひとつの例をあげるならば、中近東から何日もかけて運ばれてくる原油です。 図−3は、ロッキード社が考える、未来の水上式貨物機で、タンカーとしても十分使えそうな飛行機です。 これを使えば、往復一日で、日本のどの地域の港にも、原油を運んで来ることができるようになるのです。

 最後に、レジャー用の飛行機について考えてみたいと思います。二十一世紀になると、人々のレジャーは空を飛ぶことにも広がってゆくと言われていますし、また「空を気軽に飛べたらどんなに気分がいいだろう」という気持ちは、いつも人間の中にひそんでいるようです。 恐らく、そんな遠くない未来に、コンピュー夕を使って自動車のように簡単に操縦できる図−4のような軽飛行機が生まれてくることでしょう。 この他に、飛行機の中には軍用機がありますが、皆さんが住む未来にはもう戦争などないでしょうから、軍用機も必要なくなっていることでしょう。

 

図-4

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 第8号 1991年7月31日発行

「空、飛行機、そしてパイロット」E

−パイロットの生活(1) ある出発の朝−

日本航空機長 上田恒夫

 電話がかかってきたとき、私は深い眠りの中にあったようです。受話器をとると、「お早うございます。 これは目ざましの電話です」という、録音された声が流れてきました。 時計を見ると、シカゴの朝の7時半、日本の時間では夜の10時半でした。

B747ジャンボ機

「そうだ、今日はフライトで成田に帰る日だ」と気が付いたのですが、ホテルの部屋の暖房で、のどはカラカラに渇いている上に、こんな時間に電話で起こされると体までもがだるくて、ベッドから起き上がるまでに時間がかかるのです。 「まずは水を飲もう」と、カーテンを引くと、窓のそばにおいてあったミネラルウォーターのびんは氷のように冷たくなっていました。それもそのはず。 外は零下15度、小雪が舞っていたのですから。 水を飲むと少し目がさめて、頭も回転し始めたようです。 ホテルを出発するまでの残りの時間を計算して、急いでシャワーを浴び、ヒゲ剃りにかかりました。

 普通、ホテルの目ざましの電話は、出発の1時間前にかかってくることになっているのですが、私の場合、朝の食事はゆっくりと取りたいので、いつも2時間前に起こしてもらうようにしているのです。 荷物をまとめて制服を着ると、眠気もどこかに吹き飛んで、気分はもういつもと変わらないように感じるのですが、歩くとまだ体の方が完全に戻っていないのがわかります。 足元が頼りなかったり、頭がクラクラしてくるからです。 そこで私いつも、軽い体操やストレッチングをすることにしているのです。 そうすると体の筋肉もだんだんとほぐれてきて、食欲も出てくるのです。

 ホテルのレストランに降りてゆと、顔見知りになったメキシコ人のウエイターが愛想良く迎えてくれました。 「セニョール(紳士という意味)、今日は出発の日だね。 外は猛烈に寒いから、気を付けたほうがいいよ。 風邪を引くのに一秒とかからないから。 今日は子供たちを学校に送り出すのがつらかった。 この寒さで、どうにかなってしまわないかとね。 奴らは暖かいメキシコで生まれたから、こんな冬を今まで経験していないんだよ。 おっといけない、一人で勝手に話し込んでしまった。 セニョール、またいつものようにコーヒーと、グレープフルーツジュースの大きいの、それとコーンビーフハッシュ(コーンビーフとじゃがいもを炒めた上に、日玉焼きを乗せたもの)でいいんでしょ。 コーヒーは今すぐに持ってきますから」と、メキシコなまりの英語でまくしたてたので、まわりでは他のお客さんがクスクスと笑い声をたてていました。

 でも、私はこのウエイターに親しみを感じるばかりでなく、尊敬したい気持ちになるのです。 いつも笑顔を絶やさず、楽しそうに仕事ができるプロは、そうざらにいるものではないことを、私は知っているからです。 私自身のことを考えてもそうなのですが、つらいこと、苦しいことがあると、人間はついグチが出て、不機嫌になったり、笑顔を忘れがちになります。 「日本では皆寝ているのに、こんな時間に起こされて仕事をするのはつらいな」、「また13時間もかけて成田に帰らなくてはならないのか」等々、こんな考えが私の頭をかすめることがあります。

 そんなとき、私は思いなおすことにしているのです。 「今日は、家族や友達にまた会える楽しい日なのだ。 そして、ジャンボに乗って13時間も空のドライプが楽しめる幸せがまっているんだと」。 苦しいことを無事に乗り越えた後には、いつも大きな幸せが待つていることは、私がフライトを通して、何度も何度も経験していることなのですが、ついうっかりすると私はこのことを忘れてしまうのです。

 でも、幸いなことに、私のまわりにはいつもこのことを思い出させてくれる人達がいます。 この日も、「セニョール、また会えるのを楽しみにしているよ。楽しいフライトに行ってらっしゃい」という、ウエイターの言葉に送られて、雪の降るシカゴ・オヘア国際空港に張り切って出かけたのです。

 

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 第9号 1992年1月31日発行

「空、飛行機、そしてパイロット」F

−パイロットの生活(2)元日のフライト−

日本航空機長 上田恒夫

 アンカレッジ空港で出発の準備をしているとき、東の空から元日の太陽が登ってきました。その光線は雪に反射して、空港全体を真っ赤に染めていました。あまりの美しさに私はわれを忘れて、「今年もまた無事にフライトができますように」と、心の中で太陽に手を合わせずにはいられませんでした。

 この日、成田から着いた貨物便をロサンゼルスまで運ぶのが私たちの仕事だったのですが、駐機場にはニューヨーク行き、ロンドン行き、そして前の日に出発して成田に帰る日本航空の貨物便ばかりが合計6機、ほとんど同時に到着していて、そこには朝の静けさどころかお正月の静けさもない、あわただしい新年の一日が始まっていたのです。 アンカレッジを離陸すると、あたり一面は銀世界、「日本での正月、もう何年も迎えていないなあ」と、副操縦土のH君。「ボクの場合、正月は日本にいない方がいいんですよ。 日本にいると正月は田舎に帰って、元日から親戚へあいさつまわりに行かなければならないんです。 これが大変なんで、ボクは正月のフライトは歓迎ですね」と若い航空機関士のN君。

 私はというと、お正月、特に元日のフライトは好んでやりたい方なのです。 なぜかと言えば、元日の新鮮な気持ちでやるフライトほど気持ちの良いものはないと感じるからなのです。そればかりではなく、元日に飛ぶたびに確認するのは、パイロットにとって大切なのは技術と、正しく、張りのある気持ちであるということなのです。

では、正しく、張りのある気持ちとは一体、どのような気持ちを言うのでしょうか。 皆さんにとってはまだ難しい質問かもしれませんが、これだけは忘れないではしいのです。 それは、自分がこの世に生まれてきたことにいつも感謝する、ということです。 私の経験からお話しするならば、正しく、張りのある気持ちはいつも感謝することから始まると思うのです。 この日フライトをしながら、H君もN君も「こうしてフライトができるのも、健康だからできることなんですよね。 これだけで十分幸せなんですから、この幸せを感謝しないとバチが当たるかもしれませんね」と、素直に私の意見に賛成してくれたのです。

 アンカレッジを出発して約四時間、飛行機はサンフランシスコの上空にさしかかっていました。見渡すかぎりのカリフォルニアの空は快晴で、私の好きな金門橋(ゴールデンゲートブリッジ)も手に取るように見えていましたし、海の上には飛行機雲を引きながら飛んでいる私たちの飛行機の影が映っていました。

 ロサンゼルスに到着してホテルに入ると、今朝迎えた太陽はもう西に沈みかけていました。 私たちは夕食のときビールで乾杯して、「今年も無事故で飛ぼうね」と、お互いを励まし合ったのです。

BOING747F

 昭和49年10月から大平洋線に流現在北極回りヨーロッパ線、東南アジア線にも就航しています。 大量輸送時代の主役ボーイング747の姉妹機で、貨物輸送専用の飛行機です。

 従来のダグラスDC-8-62F(貨物専用機)の2機分以上の搭載能力があり、乗用車なら一度に68台を積んで空輸することができます。 貨物の積み卸しは、ノーズ・ドアと呼ばれる前部がそっくり開閉するドアと側部の大型ドアの2ヶ所で行なわれます。

性能諸元

全幅(m)59.659.659.6
全長(m)70.570.570.5
全高(m)19.319.319.3
運行自重(t)160.0159.8159.9
最大有償搭載量(t)101.8101.8101.8
最大離陸重量(t)372.0351.5377.8
エンジンJT9D-7QJT9D-7AJT9D-7R4G2
離陸推力(kg)×基数24,000×422,000×4(水噴射)24,800×4
燃料タンク容量(重量換算:t)154.4150.9154.4
巡航速度(km/h)908908908
航続距離(km)5,9004,5006,500
価格(円)

193億(1983)

$19.3Billion

90億(1974)

$9.0Billion

144億(1988)

$11.0Billion

 

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 創刊号 1988年10月30日発行

「発足に当たって 夢よ、大きく」

理事 及位野衣

 航空青少年団羽田支部が発足の運びとなりましたことを心からお喜び申し上げます。

 「ノゾキ受験生、只今からアンリオ28型J−BHOF機(※1)で桐生へ行ってまいります。」
 試験官に敬礼して羽田飛行場を飛び上がった。 私は、桑畑を切り開いて三百メートル位を整地して出来た群馬県の桐生飛行場への野外飛行を無事行なって、二等飛行操縦士のライセンスを手にした。それは昭和十二年十月のことである。今、あれから丁度五十年経った。
 当時の羽田飛行場は、南北に六百メートルのコンクリートの滑走路が一本あるだけで、飛行場中央に『トウキヤウ』と石の字が埋められていた。

 本年七月二日、沖合展開の第一期工事として、新A滑走路が竣工した。 長さ三千メートルの保安設備完備ハイテク滑走路である。 当時のアンリオ機では数回離着陸が出来そうである。
 夢は実現する。 大空を見つめて夢を膨らませようではありませんか。

(※1)サイト管理者注:フランス製複葉2座席練習機、1928年初飛行(出力80Hp、最高速度110km/h)

 

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 創刊号 1988年10月30日発行

「編集後記」より

 爽やかな秋空を窓越しに眺めながら、一抹の思いに、ふとワープロのキイをたたく指が止まっているのに気づく。

 昨年末、航空青少年団羽田支部の設立計画に参加をするようお誘いを受けて十ケ月余り、あっという間に月日は過ぎ去ってしまった。その間かれこれ、十一名の結団準備委員を中心に三名の本部の方々と、四十数回会議を重ねて来た。

 そして何とか『うぶごえ』を間近に聞けると思うと、長男の出生時の情景が脳裏に重なっていく。陣痛が厳しい程、安産であるとか、きつと素晴らしい支部が誕生して、すくすくと成長し、やがては目を見張るものに熱いものがこみ上げてくることだろう。

 電話のベルの音で、現実の世界にひき戻され、またキイをたたき始めた。

 

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≪≪≪ 執筆者紹介 ≫≫≫
狩谷泰久 副団長 元日本航空 航空士
新井典郎 団長 元日本航空 成田空港航務部長
久保俊郎 顧問、元団長 元運輸省航空局 鹿児島空港長
渡辺 勇 顧問、元副団長 元日本航空 航空士

前田みなほ

常任理事 日本航空 スチュワデスOG会
渋谷保男 常任理事 元東京都立航空工業高専 教授

村田照明

元団長 元日本航空 機関士
北城恒雄 顧問、元副団長 元日本航空 機長
杉本悟一 副団長 元日本航空 航空士
飯塚増治郎 元副団長 元全日空 機長
野原国治 元団長 元日本航空 機長
上田恒夫  − 日本航空 機長

及位野衣

(ノゾキ ヤエ)

元監事、理事

日本婦人航空協会 理事長

サイト管理者注:NHK連続テレビ小説「雲のじゅうたん(1976年)」主人公のモデル

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